shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

ブルシット・ジョブ

将棋の棋士で、一時は弟弟子の大山康晴十五世名人と鎬を削りあった「升田・大山時代」を演じた升田幸三実力制四代名人は、「棋士という仕事は、別に世になくてはならない仕事というものではない」と言った。もちろん、この言葉は、棋士という職を貶めたい意図で述べられたものではない。むしろ「有用性」・「無用性」という次元では語り尽くせない、己の頭脳と魂と生き様すべてを盤面の死闘に捧げた天才の誇りから出た言葉に違いない。

 

人類学者でありアナーキストを自称するデイヴィッド・グレーバーのBullshit Job: A Theory.,Allen Laneが出版されたのは2018年。この書は数か国語に翻訳され、日本でも『ブルシット・ジョブ-クソどうでもいい仕事の理論』として、2年後に岩波書店から邦訳本が出され、特にコロナ禍の最中と重なって、今も売れ行き好調のようである。Bullshitとは元々「牛の糞」の意味であり、ホラを吹くことをmake up bullshitと言うように、「でたらめ」を指す際によく使われる。

「わたし自身の政治的立場は、はっきりと反国家主義である。つまりアナキストとして、国家の完全なる解体を望んでいる・・・」

 

グレーバーは、「反国家」の無政府主義者として自身の思想的立場を明確にしている人である。そういう思想を持つ者は昔から存在したが、そのくせ国家の存在と切り離せないはずの大学で教鞭をとって禄を得ているという、言行不一致の「キャビア左翼」・「シャンパ社会主義者」の一面を持つ。「一番のbullshit jobは、お前さんのやってることだよ!」と突っ込む人もいるだろうが、グレーバーはそこまでバカではないので、一応の予防線を張っている。「ブルシット・ジョブ」と、そうでないジョブとの間の対立を煽るようなことは、ドナルド・トランプのやり口と同様であるから、厳に慎まれるべきであるとの断りを入れることも忘れない。

 

世間では、おそらく読みもしないで、「ブルシット・ジョブ」と「エッセンシャル・ワーク」を対立概念と捉えて、後者を称揚しているかのように理解している酷い誤解が見られるが、グレーバーはもちろん、そこまで杜撰な主張はしていない。「エッセンシャル・ワーカー」が低収入の傾向にあるのは、「ブルシット・ジョブ」が高収入であるのとは別の理由からである。しかし問題は、グレーバー自身でもグレーバーの著書でもなく、グレーバーの表向きのパフォーマンスと著作によるアジテーションを真に受けて、意味もよく分かりもしないで「ブルシット・ジョブ」を連呼する連中を大量に生んでいまったことかもしれない。

 

本書は、独創性に満ちた面白い着眼点を提示してくれてもいるし、勉強になることは間違いないけれど、全体の印象としては、「左翼のアジビラ」の延長で、長々と事例を列挙する割には、学術的な裏付けが最後の最後までなされていない欠点が目につく。Skin in the Game: Hidden Asymmetries in Daily Lifeにおいてナシーム・タレブが言っていたことだったと思うが、理論的な裏付けが乏しい著論文は、そのことをごまかすために、やたらと事例や統計データを列挙しまくる傾向にある(トマ・ピケティの『21世紀の資本』が典型)。事例は、あくまで理論的に証明されるべき命題を補強するための手段でしなく、論証や実証がロクになされていないままで、単に自説をごり押しするために、いくら自説に都合のいい事例を枚挙したところで、それが証明の代わりになるわけではない(タレブは、グレーバー死去の報に接し、追悼の言葉を残している)。

 

グレーバーが提起する問題は、大多数の労働者が全く無意味に思える仕事に生活の大半の時間を費やしているのはなぜなのかという問題である。グレーバーは、この「全く無意味に思える仕事」のことを「ブルシット・ジョブbullshit job」と命名する。

 

現代の病でもあるこの「ブルシット・ジョブ」は、次の三要素を充足する有償労働として定義される。一つ目は、それ自体が実質的な価値が無く、無意味・不必要・時に有害になりうる仕事であること。二つ目は、それに従事している者自身が、当該仕事の内容に対して無意味・不必要・時に有害であると考えていること。三つ目は、しかし、あたかもそうでないかのように振舞う欺瞞を強いられていることである。

 

必ずしも低収入で割の合わない仕事であるわけではない。こちらの方の仕事はshit jobと言われ、明確に区別されている。shit jobの方は社会的有用性が高いにも関わらず低収入である仕事であることが多い傾向にあるのに対して、「ブルシット・ジョブ」の方は、一般に高収入であるけれど社会的有用性のない無意味な仕事とされる。

 

グレーバーが挙げている「ブルシット・ジョブ」の5類型は、①flunkies、②goons、③duct tapers、④box tickers、⑤taskmastersである。①は、上司の提灯持ちのような、いわば取りまき連中の仕事。②は、人々に脅威をチラつかせて徒に不安を煽ることで、人々から利益を掠め取る恐喝屋のような仕事。元々ありはしなかった需要を捏造する仕事といってもいい。③は、組織や上司の無能の後始末をさせられる尻ぬぐいのための仕事。④は、組織の煩雑な手続上必要とされる書類作成など、それ自体が自己目的化してしまった儀礼的な仕事。⑤は、こうした「ブルシット・ジョブ」全般を他人にあてがって監督したり、場合によっては、それを自分で作るというような仕事。

 

なぜ、こうした「ブルシット・ジョブ」が問題なのかというと、人間は、自己の意志と能力に基づき社会的に有意味な貢献をすることによってこそ、自身の存在理由を確認できる存在であるにもかかわらず、無意味な業務である「ブルシット・ジョブ」を強いられることは、その存在理由の自己確認を損なわせてしまい、自己実現を妨げてしまう。また、欺瞞を強いる「ブルシット・ジョブ」には、自己のアイデンティティ形成にとっての阻害要因になる。これは、「他者からの自己への攻撃」であると同時に、「自己からの自己への攻撃」でもあり、いずれにしても自己破壊的な状況を生み出している。そうように、グレーバーは主張する。このような「ブルシット・ジョブ」は、往々にして人を服従させる暴力によって可能となるので、そのことで人は単なる道具的存在として扱われることにより、人間は自身の尊厳を喪失していくことになる。

 

「こうした『ブルシット・ジョブ』を生んだのは資本主義である!」と言いそうだが、さにあらず。グレーバーは、そこまで単細胞な人間ではなく、一応慎重な態度をとっている。結論から言うと、「ブルシット・ジョブ」を生んだのは、必ずしも資本主義であるわけでない。ただ、産業資本主義から金融資本主義へと進展は、「ブルシット・ジョブ」の急増をもたらしたということである。見方によっては、この主張は至極凡庸なものであって、生産能力が飛躍的に向上した高度資本主義下では、当然に第三次産業の占める割合が大きくなったことに伴い、サービス業も差別化を図りながら多様化していったことを、別の言葉で置き換えただけだと理解する者もいるだろう。

 

ともあれ、グレーバーに言わせると、「ブルシット・ジョブ」を生むことになった主要因は、資本主義というより、むしろmanagerialism(管理主義)である。産業資本主義では、企業は実物財を生産することで利益を上げていたのに対して、金融資本主義に展開していくに連れ、金融・保険・不動産など、実物財の生産によって利益を上げるよりも資産を増殖させることによって利益を上げる業種が主流になっていった。複雑な資産の運用を管理するためには操作の適正性の保証が重視されるので、細分化した手続きが増加することになり、その結果として管理部門に多数人が割り当てられることになったというのである(この辺は、かなり怪しい議論だけど)。この金融部門の人事形態が他の業種にも拡散し、あらゆる企業において、管理上の形式的手続業務としての「ブルシット・ジョブ」が生み出されていった。社会的には無価値な「ブルシット・ジョブ」を担う専門職ホワイトカラーの存在感が増していったというわけである(「グレーバーさん、もちろん、あんたのやっている大学教師も、その例に漏れるものではないですよね!」という突っ込みを入れる者もいることだろう)。金融資本主義では、あらゆるものが計量可能・交換可能なものとして扱われるので、本来数量化しえないものまで数量化して扱われるようになる。効率化を目指す運動は、実は、その運動を駆動させるために、裏方では膨大な人的労働を必要とする。これが「ブルシット・ジョブ」を生む元となるというのである。

 

効率化至上主義に彩られる新自由主義というイメージからすれば(「新自由主義」の徴表は、必ずしも効率至上主義ではなく、それは「新自由主義」に限らず、効用最大化・利潤最大化のための合理的意思決定モデルに基づく新古典派の枠組からの帰結であろうと考える。特に、一般均衡理論を数学的に定式化したアロー=ドブリュー・モデルに由来すると)、「ブルシット・ジョブ」を生む「新自由主義」というのは、一見して非効率の最たるもののように映るはず。グレーバーは、この点でも賢明なことに、「ブルシット・ジョブ」を「新自由主義」に帰責させることはしていない。異なる要因が潜んでいるはずと考えるわけである。つまり、資本主義の力学とは別の力学が働いているからではないかとグレーバーは見るのである。

 

この力学についてグレーバーは、management feudalism(経営封建主義)と名づける。グレーバーは、現代の資本主義を純粋な資本主義の形態というよりも、むしろ西欧中世の封建制と類似しているのではないかと見るのである。封建制では、領主が法的強制力を用いて農奴の生産物を徴収し、その徴収された財を、諸侯やその他臣下の者に再配分する。この点だけ見れば、国家も同様である。政府は強制力を用いて徴税し、それを国家の成員に再配分する役割を担っている。その再配分する還元方法が若干異なると言うに過ぎない。財の生産・運搬・保全よりも、その財の配分に基盤におくものだから、諸々のリソースをまわす作業に人員を割かねばならない政治経済システムが、現代の資本主義システムなのであり、この諸々のリソースの再配分にともなって生じる位階秩序ゆえに、それを可視化するようなジョブが再生産されていく。現代の職業従事者の大半が従事しているジョブは、この政治経済システムの位階秩序によって生み出された仕事である。

 

こうしてみると、資本主義が徹底・純化されていないために「ブルシット・ジョブ」が生み出されているのではないかという意見が出てきそうであるが、もちろんグレーバーは、資本主義を徹底化させる方向を目指していない。おそらく、この辺りがアナルコ・キャピタリストと分かれるところなのだろうが、なぜグレーバーはアナルコ・キャピタリズムあるいはリバタリアニズムの方向を目指さないのか、本書を読む限りでは判然としない。

 

本書の問題点として指摘できることは、その独創性にもかかわらず、キャッチーなコピーとして流通する可能性を秘めている「ブルシット・ジョブ」の概念ではあっても、その内実がほとんどない、という身も蓋もない結論で終わってしまうのであるが、真面目に考えるとしても、「ブルシット・ジョブ」の三要素を充足するジョブが、実際のところ、どの程度存在するのか。見ようによっては、現代の資本主義の下での大半の仕事がそうだと言えるし、逆にそうでないとも言えてしまう(「ブルシット・ジョブ」の三要素からすれば)。その人の、しかもその時々の状況によって、融通無碍にその範疇が揺れ動いてしまう概念なので、社会経済分析のための概念装置としては、ほとんど使い物にならないという致命的な欠陥を抱えるのだ。

 

そうした事情ゆえ、いかようにも受け取ることができる。そこで、自身の気に入らない職業を「ブルシット・ジョブ」だとレッテルを貼っていれば、それでいっぱしのことを言えたと勘違いするアホを量産することになってしまった。酷いケースでは、単に高所得層へのルサンチマンを募らせた連中が絶叫する標語と化していたり、「福祉職こそが厚遇されるべき、『ブルシット・ジョブ』とは区別されるエッセンシャル・ワーカーだ」と言って、他の仕事を貶めることに精を出す盆暗も登場してきたりする。おそらく、読みもしないで、字面からイメージされることを思い込んで叫んでいるのだろう。改めて確認するまでもないが、「エッセンシャル・ワーク」と「ブルシット・ジョブ」は対概念ではない。したがって、「福祉職」であろうと、「医療職」であろうと、警察や消防など「公安系公務職」であろうと、「ブルシット・ジョブ」は存在する。

 

企業の社会的役割の一つは「雇用を生むこと」も含まれると考える僕のような立場からすれば、それが「ブルシット」であろうと、「シット」であろうと、「エッセンシャル」であろうと、「非エッセンシャル」であろうと、相当な態様での雇用を生んでその者を食わせているのならば、それだけで立派に社会的役割を果たしているのであって、あるジョブの必要・不必要を区別する一元的基準が存在するわけではない。要・不要は、究極のところ、社会が決定するとしか言えない。

 

「社会的有用性」という概念は、それこそ一律に決定できるものでもないので、分析の道具として用いるには不適当であろう。それに「有用性」・「無用性」ないしは「要」・「不要」という対概念を徒に用いることは、極めて危険な思想に至りかねないという危惧が欠けている。人間の価値については「役に立つ」・「役に立たない」という基準で判断することは憚れるのに、特定の仕事を一律に「役に立つ」・「役に立たない」と区分けすることに何の躊躇もないというのは、どうしてなのか。むしろ、特定の仕事に従事する者に対して、「役に立たない」から社会的に存在する必要はないし、それどころか有害であると裁断する思考と、特定の人間を「役に立たない」から社会に存在する必要はないし、それどこか有害であると裁断する思考との間に、どれほどの距離があるのだろうか。特異な基準を一律に当てはめて、「社会的有用性」の大小でその存在価値を判断する思考という点では、結局、同じ穴の狢ではないか。

 

一見役に立たない儀礼的な仕事であっても、本当に役に立たないかと言われれば、そうではあるまい。そもそも、人間の文化的行為が何らかの儀礼性を帯びており、ことさら可視化された儀礼行為を取り上げなくとも、そのことは薄々気づいているはずである。逆に、何らの儀礼性も不要というのであれば、人間は文化を持つことなどなかっただろう。「社会的有用性」を強調するのであれば、元は「役にも立たない」ことの典型であった学問はどうなのか。英語のschoolの語源はギリシャ語のscholēであり、これは確か「暇」という意味ではなかったか。大学で研究された学問も、元はと言えば、修道院で暇こいている連中に、役にも立たないことを目いっぱい学ばせたことから始まったわけだし、暇で暇で仕方がない貴族が他にやることがないので、学問研究に打ち込んできた歴史がある。役にも立たない学問を腹いっぱいにため込むことこそが、本来のsuperior educationだと言ったのは、対ソ封じ込めを提唱した大外交官ジョージ・ケナンである。

 

もちろん、グレーバーはこうした諸活動を否定的に捉えていたわけではない。しかし、「社会的有用性」を安易に持ち出すことが、どのような効果をもたらすことに至るかへの意識が些か不足していたのは確かだろう。当初の意図に反して、「ブルシット・ジョブ」であるか否かの物差しに「社会的有用性」の基準が使われるという単純化が起きてしまう。そこで、一部のアホが騒ぎ出すということになってしまう。コロナ禍において「不要不急」とされた文化芸術活動に携わっている者たちの多くが、自分たちの存在意義について悩みを深くしたという。「社会的有用性」という物差しを持ち出し、それを手前勝手に振り回して他人の仕事を貶めて憚らない者が出てくるのは、必然的な帰結でもあった。

 

そうすると、グレーバーとある意味真逆を行く(と見えて、実は同一方向を向いていると理屈を弄することもできそうであるが)ウォルター・ブロックのDefending the Undefendable.の方がよほど論理的に筋が通っているように思えてくる。ブロックは、シカゴ学派頭目ミルトン・フルードマンの愛弟子ゲーリー・ベッカーに教わった経済学者で、アナルコ・キャピタリストないしはリバタリアンとしても知られる。麻薬取引をも擁護したオーストリア学派のフォン・ミーゼスやフリードリッヒ・ハイエクらの思想の系譜と、シカゴ学派の系譜の双方に位置する思想の持主といえば、それほど奇異に感じないかもしれない。違法ドラッグの売人であったり、高利貸しや薬物中毒者、賄賂を受け取る悪徳警察官やダフ屋、売春婦、闇金融業者など社会で犯罪または不道徳的とされている行為や仕事を丸ごと肯定するわけだが、こちらの方がよほど清々しく思えてしまうのは、グレーバーを持ち上げる者たちの思想に潜む度し難い差別意識が透けて見えてしまうからである。