shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服す

いわゆる「皇国史観」という言葉を聞くと、大東亜戦争での大敗という結果を招いた軍国主義体制を思想的・精神的に下支えしたイデオロギーであるとの条件反射を示す日本人は多いのではないだろうか。「皇国史観」という言葉が喚起するイメージは、まるで「悪」と同義であるかのようのである。だからこそ、本居宣長

 

敷島の 大和心を 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花

 

という歌に現れた国学の思想を「皇国史観」と結びつけて解する無知蒙昧を多く生み出しもしたのだろう。

 

予め結論を言うなら、平田篤胤国学(平田派国学)とならば格別、いわゆる皇国史観本居宣長国学とは無関係である。そもそも、本居宣長が「史観」などというものを宣揚するわけがないことくらい、その著作を読み込めば了解できる事柄である。宣長の著作と後の宣長解釈に由来するイメージとは分けて考えなければならない。

 

明治維新も、宣長とはほぼ無縁である。明治維新は神武建国の理念に立ち返ることが主張されたが、これはそもそも、岩倉具視の指南役である国学者玉松操の発案である。そして、玉松操の国学は、平田派国学と親和性はあれど、宣長国学とは全く質を異にする。だからこそ、政治的には一応「成功」させることができた。神武建国の理念に立ち返る明治維新は、大化の改新でも建武の中興でもなく、ほかならぬ神武建国をもってくることにより制度的守旧派の反対を抑えつけ、近代化を一層推し進めることに成功させた。すなわち、「ふるきよきもの、かくあるべきものを、ふたたびめぐりきたらせる」という、本来の意味での「革命」を成功せしめた秘密であるというわけである。

 

皇国史観」という言葉が政治の場にせり上がってきたのは、蘆溝橋事件に端を発する支那事変が勃発した昭和12年頃であると言われる。その元になる考えを遡っていけば、「大日本ハ神国也」という宣言で始まる北畠親房神皇正統記』に起源を求めることができないわけではない。もちろん、我が朝が神州であることの認識は南北朝時代より遥か前に遡ることができるわけだが、この書の特徴は、南朝方の正統なることを証明するために書かれた政治哲学の書であるという点で、それまでの神州思想と異なっている点である。

 

皇国史観の歴史家ないしは「歴史神学者」と言われ、大東亜戦終結後に東京帝国大学教授の職を辞して白山神社宮司の職に就きつつ、なお政界・思想界に隠然と力を及ぼし続けたと言われる平泉澄は、殊の外『神皇正統記』を愛し、いくつもの論考を残している。なお一言付け加えておくと、平泉の日本中世史研究の影響を受けた学者が、明らかに左翼的な思想の持主というか、日本共産党員として山村工作隊の一員という過去を持つ網野善彦であったということが面白い。網野の代表的な業績で、一般にもよく知られる名著『無縁・公界・楽』(平凡社)の「アジール論」は、ほとんど平泉の研究業績の上に立脚していることはあまり知られていない。

 

しかし、『神皇正統記』が皇国史観の起源に位置づけられるとしても、その内容を充実させる役割を果たしたのは、南北朝の時代から数百年下った江戸時代における後期水戸学である。というのも、『神皇正統記』は確かに政治道徳の書ではあるのだが、徳治主義の優越性及びそれを根拠にした南朝正統論を主として強調する書であるに過ぎず、直接的に後の皇国史観に繋がる思想が見られるわけではなく、あくまで間接的な関係が指摘しうるにとどまる。その意味において、『神皇正統記』に皇国史観の起源を求める見解は不正確である。

 

我が朝は、神武天皇による建国の御創業より一貫して皇祖天照大神の天壌無窮の御神勅を奉じ、三種の神器を継受してきた万世一系天皇が代々統治されてきた。改めて確認するまでもないことだろうが、ここにいう「統治」とは、政治権力を行使するという意味ではない。

 

天孫降臨に際して、天照大神瓊瓊杵尊に授けられた三種の神器、つまり天叢雲剣八咫鏡八尺瓊勾玉について、親房は「剣ハ剛利決断ヲ徳トス。知恵ノ本源ナリ」と言い、天叢雲剣を「知恵ノ本源」と位置づける。八咫鏡については「正直ノ本源」と、八尺瓊勾玉については「慈悲ノ本源」と述べている。

 

この点、福澤諭吉の「帝室論」や「尊王論」が参考になるだろう。政治権力の行使には「当る」の言葉があてがわれ、日本という国の統合に担うことには「統る」という言葉があてがわれているように、政治権力の行使と国家統合の象徴的権威であることは別物である。

 

福澤諭吉が「我大日本国の帝室は尊厳神聖なり」という時、絶対的政治権力の所在は天皇にあると主張しているのではなく、政治権力の行使を可能ならしめる国としての統合を担う、俗世を超越した聖的領域としての天皇の意義と、「懐旧の口碑」の源泉としての皇統の神聖について述べていたのである。Kaiserでもцарьでもimperatorでもemperorでもking of kingsでもない。

 

後期水戸学は、儒学ことに朱子学と古学の混淆の系統に位置づけられ、同時代の契沖や賀茂真淵そして本居宣長らの国学の系統とは直接の繋がりはない。明治維新を牽引する思想は、本居宣長国学ではなく後期水戸学であったことを既に小林秀雄は見抜いており、そのことについて、安岡章太郎との対談ではっきり述べている。

 

後期水戸学を代表する学者藤田東湖の『弘道館記述義』は、確かに『古事記』や『日本書紀』の記載に基づいていることに違いないが、それを本居宣長のようには解していない点が特徴である。むしろ、そこから政治道徳ないし政治哲学的含意を抽出するという、ある意味で正反対の行為に出るのである。

 

藤田東湖は「聖子神孫克く其の明徳を紹ぎ」と述べ、この「明徳」とは「蒼生安寧」のうちに存することを明確にする。我が日本国は、「宝祚無窮」・「国体尊厳」・「蛮夷戎狄率服」・「蒼生安寧」の4つを特色とする国柄であるというのである。曰く、

 

蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服す

 

すなわち、万世一系の皇統が永遠であることは、日本国の政治が元来「蒼生安寧」を旨とし、それをこそ目的として進んできたことに実現される。それゆえ、我が国体は尊厳を保つことができ、諸外国も尊敬に値する我が日本国を従えることが不可能となるというのである。

 

ここに「国体」という表現が登場することに注目すべきだが、この「国体」という言葉はもちろん本居宣長の著作には登場せず、藤田東湖と同じ水戸藩重臣であった会沢正志斎の『新論』において登場した言葉である。

 

ここには、無理矢理にでも武力を以って諸外国を制圧し服従させようという思想はない。日本国が自己の尊厳を保ち自立した国として存在することで、外国からの不当な要求や侵略を撥ね除けることができるということが言われているだけである。大東亜戦争開戦詔書の、

 

列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル恂ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

 

の御言葉にも反映されている。万邦共栄の道を模索していたけれど、万策尽きて米英に宣戦を布告するこの開戦詔書の文言から聞こえてくるのは、悲痛としか言いようのない声である。

 

もちろん、戦前の我が国の行為に帝国主義的要素がなかったと言えば、それは嘘である。対米英戦争は「先発帝国主義国」と「後発帝国主義国」との覇権争いの末に生じた事態という側面があり、また対華二十一か条要求以降の我が国の対支関係を通覧すれば、そこに覇権主義的恫喝外交を背景とする傲慢な大陸政策の失策について、一片の「侵略性」もなかったとするには無理がある。したがって、大東亜戦争を「聖戦」の一語で全肯定することは無理筋の暴論ではあろう(と同時に、日本側からの一方的な侵略行為と見る左翼の主張も、乱暴な歴史の見方である)。

 

皇国史観の一部の要素が曲解され、他民族に対して居丈高な言動が存在したのは事実だとしても、そうした言動の責を皇国史観そのものに帰すわけにもいかない。ましてや、宣長国学とは無関係である(宣長の言う「大和魂」や「大和心」とは、紫式部赤染衛門が使った意味である)。

 

むしろ、皇国史観が俄かに宣揚され出した昭和12年以前、日本人以外のアジア人への蔑視感情が対華21か条要求や過激化した日貨排斥運動(現地の邦人が虐殺される事件も起こるほどだった)の頃から蔓延し始めていたことを見逃すべきではない(関東大震災による混乱の最中に、流言飛語によって多数の朝鮮半島出身者が虐殺の犠牲に遭ったのも、こうした蔑視感情と無縁ではないはず。心ある民間の日本人あるいは警察官が暴徒から朝鮮人を守ろうと匿った事例もあるが、折口信夫が憤激し悲嘆に暮れたというほど、多くの朝鮮人が犠牲になったものと思われる)。

 

蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服すということを思い返すべきである。