shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

曖昧さについて

ケインズ『確率論』において提示された確率の論理説の見解を批判し、いわゆる主観説を主張したフランク・ラムジー「真理と確率」は、確率を個人の「部分的信念の度合い」という解釈の下で分析することで確率概念を位置づけ、人間の精神作用における論理性を形式論理に還元することの有用性の無視が合理性を捉え損なう恐れがあることを明らかにしている。

ラムジーは、個人の信念の度合いとしての確率を「オッズ」として定量的に表現されたある量と操作主義的に結びつける解釈を行い、効用関数概念に接続可能なものとして捉えるわけだが、補論として書かれた「確率と部分的信念」では、若干そのトーンが落ちている。

少なくとも、ケインズの確率の意味論に関する主張が、カルナップが整理したような「論理説」にきれいに収まりがつかないのと同様に、ラムジーの主張がサヴェッジらの「主観説」にスッポリ収まることはなさそうだ。

いずれにせよ、「偶然」もしくは「曖昧さ」との格闘でもあるゲームの賭けなり投資行動と確率論との密接不可分性は、確率論誕生の動機がカード・ゲームでの賭け行為から始まったというエピソードが如実に物語る。賭けをする時、賭金の額を計算する上で順列・組合せがその基礎となる。この初等的概念が理論として整序され発展され確率論となるわけだが、確率論が具体的に賭けに応用される際は、基本的には期待値という事象の確率とその事象で得られるペイオフの積の加重平均で表される値と結びつけられる。すなわち、より合理的な賭けとは、期待値の大きい方への賭けである。

ともあれ、確率論は期待値を元にして発展してきた。20世紀初頭までにコルモゴロフによる公理化によって確定した理論として完成を見たが、これをフルに活用した理論が統計力学量子力学である。ラムジーは「主観説」的解釈論の祖として位置づけられる傾向にあるものの、しかし同時に部分的信念と非決定的推論としての確率概念とは区別される物理学における統計的頻度としての確率概念を認めていたわけで、後者の確率概念に関わるのが統計力学量子力学である(もっとも、量子ベイズ主義のように客観的な統計的頻度と解さない立場も出てきてはいるが、それは別の機会に触れよう)。

統計力学におけるエントロピーとは、ある物理系のマクロ状態を実現するミクロ状態における個数の一測度と定義され、実際に状態数の対数であることはルートヴィヒ・ボルツマンの定式化によって明らかにされている。ミクロ状態の個数が最大の場合のマクロ状態つまりはエントロピー最大の場合のマクロな状態は、仮にどのマクロ状態にも等しいアプリオリな確率を付与するなら最大のアプリオリな確率を持っている。だから、ある系が特定の時点にエントロピーが最大でないマクロ状態にあるのなら、後のある時点に当該系がさらに高いエントロピー状態に移行する確率が高いというのが、熱力学第2法則に関する統計的説明である。

時間対称的立論からは、同じ理由で、当該系の「以前」のある時点にエントロピーがより高い状態で見出される確率が高いということになるはずである。しかし、そう推論することは第2法則の適用における経験的妥当性に反するように見える。我々は現実の経験に基づき第2法則を適用しているのは過去についてのみであり、その際、過去から未来へのエントロピーの増大についての知を持っているからである。そうすると、確率に関してそれを過去に適用することを排除すべきとなりそうであるが、一体いかなる理由でこの排除を正当化できるのかという難問が提起されるだろう。これは熱力学・統計力学と時間非対称性そして確率論の適用との哲学的難問に関わる。

エントロピーと情報の概念を接続するアイディアを示したのはボルツマン自身であり、本格的に研究したのがクロード・シャノンである。エントロピー概念が情報論的に解釈されることで、情報を「負のエントロピー=ネゲエントロピー」として捉え返されるが、エントロピー増大は情報の喪失を意味するので、ここに意味論的問題に遭遇することになる。

 

一見パラドクスにみえるこの意味論的問題に対して、シャノンは情報測度をプラスの符号を伴うエントロピーと定義しているところが注目されるだろう。エントロピーとは可能態的な知の一測度である一方で、ネゲエントロピーとは現実態的知の一測度である。そして、シャノンの言う情報とは、あるシグナルの新しさの値の期待値と定義できることになる。あるシグナルの新しさの値とは、このシグナルを他のすべての可能なシグナルから区別するために決定されねばならない単純なオールタナティヴの個数と定義でき、したがって熱力学的なマクロ状態の情報とは、あるシグナルの新しさの値の期待値であり、当該系のミクロ状態を知ることの中にあるはずのものと考えることができる。

他方で、量子力学には不確定性原理があり、現象は同一条件をおいたとしても、その条件の下で必ずしも同一の結果が生起するとは限らないが、多数の事象を観測すると、その中でどの値がよく得られるかという確率が得られる。この点で量子力学は、確率論を基本的論理として採り入れた。これがマックス・ボルンの功績である。しかしここでは、期待値の概念は別の意味で重要な役割を果たしていることに気がつく。古典物理学では、現象は起こるか起こらないか明確に確定しうるような現象、つまりは確率が0か1に決まるものだけを対象として扱っていたことが明らかにされ、一義的に決まらない物理現象を記述する量子力学を数学的に整理することができ、かつ明確に実験結果と合致するような理論が構築された。

しかし、量子力学における確率の持つ哲学的含意について明確にされたわけではなく、今も優れた哲学者や物理学者そして数学者たちが侃々諤々のケンカをしている。そもそもジョン・フォン・ノイマンの名著『量子力学の数学的基礎』(みすず書房)がきちんと読み込まれているとも言い難い。本書は、僕のような門外漢には一読して理解することは難しく、三度ほど線を引き引き冷や汗かきながらようやく理解に達したつもりになっていたが、それでもおそらく浅い読みに留まっているはずだ。この点で、小澤正直『量子と情報-量子の実在と不確定性原理』(青土社)は、一般読者を意識した書き物になっていて、僕のようなノイマンの定式化に不満を持つ者にとって大変勉強になるところがある。特に、第3章「フォン・ノイマン量子力学の数学的基礎」だけでもいいので読んでおいて損はない。

ノイマンとバーコフの新しいアプローチである量子論理は、ある属性が別の新しい属性を作る仕方の表現である。古典論における物体の属性は、ブール論理に従うパターンを見せる。しかし、量子論的属性はブール論理には従わない。量子論理は分配則が当てはまらないので、すべてにおいて分配則が妥当しなければならないブール束とは異なる非ブール束である。

古典論における物体の属性は全て同時に測定できるが、量子論ではそうはいかない。ある一定の両立属性の組だけが同時に測定できるに過ぎない。全量子論理束のブール型部分束は、同時に測定できる両立属性だけで構成される。全ての量子束は波動論理的非ブール的関係の中のブール的部分束の連合で構成されている。

高名な論理学者として日本の読者にとって馴染み深い竹内外史による、Proof Theoryよりは知名度はないが、『線形代数量子力学』(裳華房)がある。その付録に収録されている「量子論理への誘い」を取り上げよう。

もっとも、本書から量子力学を理解するということ自体を目的とするわけではない。量子力学の理解だけなら他に相応しい書物がある。本書を取り上げる理由は、数学基礎論の立場から量子力学に光を当てて見ると、線形代数の理解に量子力学は格好の素材を提供してくれているものとして捉え返されていること、そして、特に付録の量子論理についての考察は、量子論理と確率論との関係を反省する栞となるからである。

この両書にまたがる基本的立場は、徹底的に有限の立場に拘るというものであろう。このことは竹内が直観主義の立場にいたことからすれば当然と言えるものだ。一方は、ゲンツェンのLKの体系でのカット消去定理の証明を有限の立場から導出することに反映しているし、他方は天下り的に無限次元ヒルベルト空間を導入するのではなくして有限の立場から量子力学を再定礎する試みであるからだ。

数学基礎論における直観主義は、ヒルベルト形式主義ラッセルの論理主義と排中律の取り扱いで大きく異なる。「AならばBである」という命題に関して、形式主義ではAもBもその内容に関して問うことはなく、単に関係式を定義した上でそこから演算をしていけばよい。論理主義では、それが一つの論理として成立するかを見ればよいことになる。

対して直観主義では、「AならばBである」という場合、AはBであるということを確かめる手段を持っているということを意味する。したがって、AやBの内容が何でもよいということはない。「AならばBである」という時、それは単に形式的な論理のいう意味ではなく、確証の手段を持っていることが「AならばBである」ということの保証であるということになる。

そうすると、直観主義排中律を承認しないので、「AならばBである」という手段を持っていたとしても、「AならばBではない」という手段を持っているという保証は必ずしもないのだから、「AならばBである」という手段を持っているか、「AならばBではない」という手段を持っているかのいずれかであるということは必ずしも言えないことになる。

形式主義では、AはBであるかBでないかのいずれかであることをまず前提として措定し、そこから議論を始めるわけだが、直観主義論理は排中律が必ずしも成り立たないように論理を拡張することができるところに魅力がある。

魅力があれば、同時に犠牲にしなければならない要素も出てくる。例えば、排中律を承認しないとなると、自然数まではともかく実数を扱う際に厄介な問題を抱え込むことになる。実数や実数を使った関数あるいは微分積分などの扱いが面倒になるのではないかという問題が出てくるわけである。

竹内外史は、排中律の成り立たない際の集合論の取り扱いに「コンプリート・ハイティング・アルジェブラComplete Heyting algebra」と呼ぶ直観主義論理の体系を導入する。この「コンプリート・ハイティング・アルジェブラ」においては、自然数だけでなく実数の演算や微分積分まで自然な取り扱いが可能である。ハイティング代数で知られるハイティングは直観主義の提唱者ブラウアーの継承者である。

排中律が神の如き超越的視点を想定しているのに対し、ある種の人間的立場で論理を考えるのが直観主義の立場だと通俗的に捉えることも許されよう。例えば、∀x∃yA(x,y)すなわち「全てのxについてyが存在してA(x,y)を満たす」を、「どんなxをとってもそれからyを『構成的』に構成する方法が与えられていて、そうして作られたyはA(x,y)を満たす」というように解釈することによって合理化する方法を考え出した(この考え方をある意味で徹底させたものに内部観測論があり、郡司ペギオ幸夫『原生計算と存在論的観測-生命と時間、そして原生』(東京大学出版会)のハイティング代数の多用がどこまで正確なのか大いに疑問が残るが、この内部観測論の発想の根本は、直観主義の基本的な考えを下敷きにしているのだろう)。

だが直観主義には、先に見たように「→(ならば)」の演算の定義が面倒になるデメリットを抱える。竹内外史は論理学ないしは数学基礎論の立場から基礎づけを図ろうとする量子論理と直観主義の論理の関係性を見る。もちろん両者は出自を異にする。量子論理は確率論の論理的基礎づけに関連して提示された論理であるのに対して、直観主義の論理はそれとは違う。

それはさておき、ザデーのファジー論理と確率論の関係が問われることになるが、その際に先ず問われるべきは、メンバーシップ関数の身分である。これが客観的な性格を持つのか主観的な性格を持つのかという点である。ザデーによると、メンバーシップ関数は0と1の間にある実数値を持つというわけだが、竹内外史によると、そうした捉え方は極めて制限的な主張である。なぜなら、数量的に実数の上に乗せることが可能な対象しか扱えないし、しかもそれはスカラー量でしかない。

竹内の提案は、このような制限を取り払い、0と1の間に様々な量を考え、メンバーシップ関数を0と1の間の実数のみならず広く半順序集合に拡張すべきというものである。数といってもスカラー量の他にもベクトル量やテンソル量など種々の量があるのだから、数量的といっても0と1の間の実数領域に乗せることだけが数量なのではない。竹内の提案は、「確率」や「曖昧さ」という概念を扱う広範な射程を持つ論理とは何か、そしてその論理と実在の関係に関わるメタ論理の意味を考える上で我々の思考を喚起させてくれるものである。