shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

主観的確率の効用と証明責任

 僕自身が現在国際金融の世界に身を置いているので、この場で触れることが果たして適切なのか疑わしいのだが、最近の日本経済を世界経済全体の動向と重ねてみると、いわゆる「アベノミクス」と言われる一連の経済政策の有効性は、一部のまともな経済学者(メディアに頻繁に登場するようなインチキ経済評論家の類の者とは別の)の予想通り、否定される結果を示しているようである。マネタリズムケインズ経済学やサプライサイド経済学などをごたまぜにしたかのような「三本の矢」は一つの方向に向けて放たれた矢ではなく、銘々バラバラの方向へと放たれ、早晩挫折することが予想されていた。いわゆるリフレ派の経済学者が主導した「第一の矢」だけが放たれるばかりで、これでは「異次元の金融緩和」によりダボついた資金が国内に投じられず国外に流出するばかりで、結果的にウォール・ストリートの面々がほくそ笑むだけに終わってしまっている。国内で投下されたとしても、相変わらず株や不動産にばかり流れ、国内で上手く還流するにまでは至っていない。政府が仮に賢ければ、これは意図的な日本経済弱体化政策を追求している売国奴ということになるし、逆に本気で成功すると思っていたなら、相当なバカということになる。

 

 戦後に長期間デフレ状況に陥った国は日本のみであることを考えると、1990年代以降の経済政策が一貫して誤っていたことを示している。とりわけ、デフレ状況に陥りかけている最中に、「行革」と緊縮財政と消費税増税という最悪の政策を断行した橋本龍太郎政権の罪は大きい。更には、追い討ちをかけるように、2000年代初めの小泉純一郎内閣のサプライサイド政策がこの動きを決定的なものとした。潤ったのは、「規制緩和」という美名のもとに結局は「レント・シーキング」から得られる果実に群がった一部の「政商」とそこに集る規制改革会議の御用イデオローグだけだった。そこにリーマン・ショック後の民主党政権がダメ押しをかけ、続く安倍政権も、金融政策こそ違えど旧民主党政権の財政政策を基本的に踏襲するかたちになっている。やることなすことほとんどがデフレを深刻化させる方向に働き、日本経済全体の力はますます弱体化している。日本経済弱体化とそれに伴う国民の窮乏化を狙っている左翼は、この動きに拍車をかけようと、意図的に公共投資悪玉論を展開し、国民経済を守るべき保守派の中にもそれに呼応する者が多くなるという異常な事態となっている。安倍晋三と表向き安倍政権を攻撃する左翼は、実は日本経済弱体化をともに志向する共犯関係に立っているわけだ。

 

 このような現状認識からくる漠然とした先行き不安が蔓延しているためか、一時程の過熱ぶりは収まったとはいえ、今も尚日本人は「暗号通貨(crypto currency)」にご執心のようである。書店には暗号通貨取引のためのテクニカル分析に関する書籍まで出回っている始末。株式や先物または外国為替の取引に用いられている「テクニカル分析」がそのまま適用可能だとする暗黙の前提に立つ叙述は、立ち読みするだけで杜撰とわかる安直さが目立つ。そもそも、「テクニカル分析」自体が根拠希薄なものだし、多分に自己予言的な要素が強いものだから、それを信じる者がいればいるほど有用性が変化していくという性格を持つ。ただ一言しておくと、有力ヘッジファンドやごくごく一部の投資家は、巷間言われる単純な「テクニカル分析」と「ファンダメンタルズ分析」の二本柱で取引しているわけではなく、それぞれ分析手法は異なれど、全く違う方法で収益力を高めているとだけは言っておきたい。

 

 それはともかく、この問題を契機として、そもそも貨幣とは何かということを再考するのもよいだろう。抽象的な原則論に立ち返って貨幣とは何かと考えると、現在もなお主流の経済学の大元となっている新古典派経済学は、貨幣に関して円滑な交換を可能ならしめる媒介物でしかないものとみなし、資本から労働力に至るまで交換の対象と考え、経済の実体を貨幣を捨象した財と財との交換であるとの前提に立脚して議論を進めている。貨幣については、貯蓄と投資の関係や金融政策の効果等についての考察を専らとする金融論へとスライドさせて論じる立論がほとんどを占めている。貨幣数量説にしても貨幣とは何かを説明するものにはなっていない。元々、物価の変動は貨幣数量の変動に比例するという考え方はあったわけで、それを明確に定式化したフィッシャーの交換方程式は、貨幣の数量と貨幣の流通速度との積は物価と取引量との積に恒等的に等しいことを示したのだが、これ自身は単純な恒等式に過ぎず、貨幣数量説はこの恒等的関係に更に流通速度の一定という想定が導入されることで得られる。仮に貨幣数量説を是とするならば、問題は今日の超高速取引において貨幣の流通速度が一定とする前提が成り立たなくなっているということである。貨幣数量説とは違うケインズは商品貨幣論に代わる信用貨幣論に基づき、貨幣需要流動性選好関数として論じる一方、新貨幣数量説のフリードマンは、マーシャリアンkの安定性の前提に貨幣数量が物価水準を決定するとだけ述べるにとどまり、結局は貨幣と物価との相対的関係を論じるに終始している。経済政策だけを論じるのならば、確かにそれで事足りるのかもしれない。

 

 しかし、それでは貨幣とは何かという疑問に答えたことにはならない。その意味で、貨幣の発生のメカニズムにまで考察を伸ばすマルクスの思考は、商品貨幣論パラダイムにすっぽり収まる古色蒼然とした貨幣論であるとの限界を持つものの、いまだに色褪せてはいない。マルクス貨幣論の特色は、まず第一に商品交換過程から貨幣発生の必然性を説くにしても、商品が自らの価値を表現するその特殊形態に発生の必然性を帰着せしめる立論を行っていることである。我々凡庸な者からすれば、まず各商品の交換不可能性を認定することから始め、かかる交換不可能性解消のために必要な一般的購買手段たる媒介物としての貨幣の発生という具合に考えそうなものである。もちろん、この種の立論をマルクスは交換過程論において行うわけであるが、交換過程論だけでは貨幣の機能的分析だけに帰してしまいかねないことを見抜いていたマルクスは、その前段階として商品の価値表現の分析からの立論つまりは価値形態論を展開した。

 

 例えば、いまここに二つの商品AとBがあるとしよう。(A商品のa量)=(B商品のb量)という等式の左辺は、マルクス資本論』によれば、価値を表現する側であるから相対的価値形態であり、他方で右辺はA商品の価値表現の材料として用いられいるから等価形態となり、各々別の意味が付与されている。マルクスのいう価値形態の特殊性は、A商品の価値表現はB商品の価値表現としての使用価値によって可能になっているという特殊性にある。その価値表現の「価値」とは、労働価値説に従う限り当該商品の生産過程において対象化された労働をその実体とするわけであるが、マルクスは単純な投下労働価値説に立脚して商品生産に投下された労働たる個別的価値を価値と解する見解を退け、生産および交換の全社会的関係の中で確定されるとする見解を採る(この点を強調するのが廣松渉資本論の哲学』(平凡社)であり、廣松とその周辺の者が共同した『資本論を物象化論を支軸にして読む』(岩波書店)である)。すなわち価値を実体概念であると同時に関係概念として把捉するのである。もし単純な投下労働価値説に立脚するのであれば価値形態論は終局的に不要と化し、マルクス自身も価値を「超感性的」と形容する必要すらなかったはずであろう。

 

 このような形態を介して商品間の全社会的交換関係が形成され、その過程を通じて価値が社会関係として成立せしめられる価値と価値形態の弁証法的関係が形成される。その上でマルクスは、この価値形態では交換一般の可能性は保障されないとして更なる立論を始動する。要約するとこういうことである。すなわち、価値関係内部のB商品のある量は使用価値の姿をまとってA商品にとっての価値物に転化する。それゆえ、(A商品のa量)=(B商品のb量)は、(B商品のb量)=(A商品のa量)という逆の関係を含むことになり、この両者が成立してもA商品はB商品の価値表現で自らの価値を表現し、B商品はA商品の価値表現で自らの価値を表現することになるわけだから、一方が相対的価値形態であれば他方が等価形態であるという排他的関係にあることで、相互比較軽量可能な通約可能性を確保することができないことに帰結してしまう。だから、こうした欠陥を止揚する一般的等価物としての貨幣の必然性が要請されるという論法である。すなわち、所与の価値関係を前提とする交換の成立可能性と価値形態の構造的欠陥による交換の疎外が価値形態発展の動力となるという仕組みになっている。価値形態から拡大された価値形態の定式化は、単純な価値形態が全商品関係につき「あるいは」という仕方で「可能性として」成立していることを意味するとされ、逆に「あるいは」という仕方で接続詞として結合されているがゆえに選択可能な一つが選択される単純な価値形態に帰着せしめられることになる。可能性としての自己の商品以外の全商品を等価形態としつつ、この等価形態を可能ならしめるのが所与の価値関係の想定である。

 

 ゆえに価値として等しいものはすべて等価物たりうるとマルクスは立論して、一般的価値形態の議論へと進む。単純な価値形態の場合と同様、逆の関係を拡大された価値形態のすべてに適用し等価形態にある唯一の商品を一般的等価物と論定し、全商品が同一の一般的等価物によって自己の価値を表現するために、相対的価値形態の側の商品が相互に比較軽量できる価値表現の形式を獲得することを示し、このような形態での一般的等価物が全商品となったものが貨幣形態である。このようにマルクスは、交換過程の困難を止揚するための媒介物としての貨幣をいきなり論定する前段階の作業として、商品は価格において交換で現れることを示している。すなわち、所与の価値関係において価値通りの交換の実現を可能ならしめる価値の表現形式の構造分析を以って貨幣発生の必然性の立論の基礎たらしめている。

 

 対して、世界的なマルクス経済学者である宇野弘蔵は、このような論理を用いていない。一般に知られているように、価値形態を流通形態として把握し、流通形態が発展してこれが生産過程を包摂したときに価値の実体規定は可能だとしているところに宇野原理論の特徴が現れている。とするならば、価値と価値関係の関係は、一見するとマルクスのそれとは逆のように思える。すなわち、価値形態の発展の動力を所与の価値関係を前提とする交換の成立可能性と価値形態の構造的欠陥による交換の疎外に求めるのではなく、商品所有者の欲望に帰着させていることから、むしろマルクスが価値に応じた価値形態を見たのとは違って、需給関係において調節しうる要因を相対的価値形態の量的規定性のなかに求めるという具合になっている。だが、拡大された価値形態における等価形態を商品所有者の欲望の対象物として措定しつつ、この拡大された価値形態で共通に等価形態にある商品があると考えるならば、それらは価値表現する側の商品所有者の欲望の対象であるはずであるから、共通の欲望の対象は全般的にはならないはずである。一般的価値形態は全商品によって等価形態とされる特殊な商品の出現なしにはありえないわけであって、その際、何らかの共通の等価物が理論上求められるはずである。

 

 ところが、こうした共通の等価物は直接的な欲望の対象ではないという点において拡大された価値形態および単純な価値形態の成立の大前提とは全く違ってしまっている。一般的価値形態を拡大された価値形態と同じ前提から理論展開するならば、一般的価値形態は「一般性」を持ちえず、あるいは一般化するには逆に等価形態を商品所有者の欲望から立論することは到底なしえない。貨幣の物神性の秘密の一端は解明されたとはいえ、マルクス貨幣論は、新古典派と同様、所詮は商品貨幣論の枠組みでしか考えられているに過ぎず、現代資本主義における貨幣の本質については、未だ解明されぬ謎のままなのである。

 

 安倍晋三内閣が推進するTPP(環太平洋経済連携協定)をも含めた一層の自由貿易化の流れにしても(日本は、農業以外の分野において既に相当な程度に自由貿易体制になっていると思われるが)、その依って立つ基本的な前提となる考え方に遡行してみないといけない。この立論の背景にある理論的根拠といえば、巷間言われる貿易理論として最早古典的な説明ともなっているリカードの比較優位説であろう。国際経済における自由競争は好ましい結果をもたらすとの帰結に至るリカードの比較優位の立論の最終的な理論的根拠は、終局的にはパレート効率性の達成である。すなわち自由貿易は、他の国の利益を傷つけることなしにはいかなる一つの国の利益をも増大させることは不可能というところまで、国際的な資源配分の効率性を達するという理屈である。

 

 ちなみにゲーム理論におけるナッシュ均衡解は通常同時にパレート最適であるが、「囚人のジレンマ」として知られる状況とは、このナッシュ均衡解は存在するものの、それが必ずしもパレート最適にはならないことを示す事例である。もちろんリカードは馬鹿ではなかったので、これを以って国際間格差が解消するまでは言っていない。生産関数が示す各国の技術の差異は同時に賃金や利潤の差異の発生をも含意しているのだから、国境を超えた本源的な資源の移動があれば格差は解消できると理解することができるとしても、資源の国際間移動が完全になされないとするなら国際間格差は自由貿易では解消されるとは言えないからである。

 

 リカードの立論は、生産要素の移動の不自由性などいくつかの前提を仮定した上でないと成立しない議論だし、当時の貿易システム全体というより英国経済にとって望ましい貿易システムという視点に立脚した立論でしかないという点をも考慮した上で評価しなければならいだろう。このリカードの立論を以って、各国がwin-winの関係に至るかのような説明も少なからず見受けられるが、これはパレート効率性の達成をwin-winの関係の達成と等価に見る誤りを犯している。貿易システム全体としてパレート効率性を達成したからといってwin-winの関係になるとは限らないからである。なるかもしれないし、ならないかもしれない。両者は別物である。そしてリカードの立論は前者すなわちパレート効率性の達成しか言っていないのである。ところが、かくのごときリカードの比較優位論の通俗的理解が浸透しているために、無条件の自由貿易礼賛論の道具にリカードが利用されている現状は、正視に耐えない酷い知的状況である。もちろん、限定付のリカードの比較優位説でなく別の理屈を持ってくることも考えられる。各国の潜在的技術力の等価を仮定するならば、労働力および資本の保有量の差異にかかわらず実質賃金および利潤の均等化をもたらし、効率性と同時に平等性をも達成するという立論である。これは全ての国々にとっての最適解であることを含意することになるだろう。

 

 しかし、村上泰亮『反古典の政治経済学(下)-二十一世紀への序説』(中央公論社)が指摘しているように、先ず各国の潜在的技術力の等価性という仮定は非現実的な仮定であることに加え、十全な証明はなされていない。国際的な再配分メカニズムが完備されているというならば別だが、そんなことはありえないので、この立論もまた自由貿易擁護論の確たる理論的根拠としては弱い。この類の立論は、左翼側からの「不等価交換」概念を根拠とした従属理論を主張する論者の拠って立つ主張とその論理は同質であって、彼らの理論的根拠も同程度に弱い。

 

 非現実的な仮定を前提において立論しても、経済理論が当面の予測を行うことに資するならば問題がないことを主張したのは、マネタリズムの論客であった経済学者ミルトン・フリードマンである。その著書Essays in Positive Economicsの冒頭にある論文”The Methodology of Positive Economics”には次のように述べている。

経済理論は、『仮説』と『現実』を比較することで検証することはできない。なぜならば、そのようなことは無意味であるからである。完全な『リアリズム』など明らかに不可能であり、経済理論が十分に『リアリスティック』かどうかは、ひとえに当該理論が当座の目的にとって十分に意味のある予測をもたらすか、あるいは他の理論による予測に比べてよりましな意味を持つ予測をもたらすかにかかっているのである。

 

この態度表明には当然著名な経済学者から異論が差し挟まれたが、不幸なことに経済学者の中で、理論が世界との関係でどのような意味を持つのかといった科学哲学上の問題が本格的に議論されることなく終わってしまい、今も同様、経済学者たちの多くは自らの依って立つ前提となる一つの哲学的立場に対する反省を欠いたまま無自覚に研究を続けている。

 

 このフリードマンの見解は、科学哲学の中では「道具主義」ないしは「予測主義」と呼ばれている見解に近い。「近い」というのは、もちろん自然科学における「道具主義」と呼ばれている立場でも、フリードマンほど杜撰ではないという意味である。その主張の核心は、科学の命題にとって重要なことはそれがどのように使用されているかであって、何を記述しているかではない。科学の理論で語られる自然法則なるものは世界についての文字通りの描写ではなく、したがって科学理論それ自体が真であるか偽であるかということは無意味であって、理論から予測が導き出せるか、要は予測にとって有用か否かということが重要な要素であるという主張である。一方の極端な主張が「科学理論は文字通り世界についての客観的な描写である」とする科学的実在論であるとすれば、この道具主義は他方の極端な主張である。この問題は、世界の名だたる科学者や科学哲学者が侃々諤々議論してもなお解決の見通しすら立っていない重要な問題だけに、ここでいずれが正しいかを論じることなどできそうもない。

 

 宇宙物理学における所謂「特異点定理」(代数幾何学の分野において、廣中平祐が証明した代数多様体上の「特異点解消定理」とは全く異なる)で知られる物理学者ロジャー・ペンローズスティーブン・ホーキングでは、両者の科学理論と実在の関係についての見解は両極端である。ペンローズ科学的実在論にくみする一方、ホーキングは自らを実証主義者と言い、理論が実在に対応しているか問うのは無意味であり、理論はあくまで我々が構築する数学的モデルに過ぎず、観測結果を予測する道具であるという見解を採る。しかし一言しておくと、科学の理論にはもちろん予測の側面もあるが、世界を説明するという要素もある。科学の理論は、少なくとも世界を説明することをもその理念としていることを考えるならば、「単純に予測に資すればそれでよく、科学の実在との関係における命題の真理値を問題にすることは無意味だ」と解する見解は、科学の営みの実態を正確に伝えていないだろう。もっとも、極端な科学的実在論の主張は、言えることと言えないこととの境界についての意識が些か希薄だし、命題と実在をめぐるこれまでの分析哲学・科学哲学の精緻な議論の諸成果を踏まえると完全に同意はできない。言えることは、あくまで近似的に真であることまでではないかというのが素人としての僕の意見である。それでも、自然科学なかでも物理学は、世界について語られてきた学知の中でも人類の生み出した最も整合的で体系的な最高の知の形態であることだけは明白である。だからといって、森羅万象ことごとく自然科学によって把握できると解するわけにもいかず、過激な自然主義化にくみする見解も誤りではないかと思われる。

 

 最近流行のマルクス・ガブリエルの言説は、そういう過激な自然主義化への反対言説として消費されているきらいがあるが、とはいえ僕は、ガブリエルの見解そのものについては残念ながら同意できないし、これまた瞬間的に流行ったメイヤスーなどの「思弁的実在論」にも不同意である)。自然科学の多くの理論は、仮説と現実の関係について無視するような乱暴な議論はしないはずである。もちろん僕は、自然科学者ではなく法学部で主として公法理論や政治思想史を学んだ後は金融畑でちょっとした数学を使いながら仕事をしている門外漢でしかないので具体的な現場の状況には不案内だが、仮説形成過程での確証の問題は当然問われているはずである。仮説が与件からどの程度信頼に値するか、その信頼度を定量的に示すことのできる道具立ては今のところ確率論しかないので、例えばベイズ確率をつかってその確証度合いを見ることだってある。この確率は、客観的確率とは別の主観的確率である。信用度を定量的に示す道具立てとしての主観的確率である。ところがフリードマンは、この仮説形成過程における確証の問題を無視する。この主観的確率をフリードマンは不確実性をその理論に取り込む際に利用する。もちろん、それ自体は問題ないと考えることもできよう。

 

 しかしフリードマンは、選択対象を相互背反的な選択肢の集合に限定し、各々の選択肢にある特定の確率を付与することで、選択対象は所得に関する一定の確率分布を意味すると考える。そして、確率計算可能な「リスク」と不可能な「不確実性」に対して各々に方や客観的確率を方や主観的確率に対応させた上で、サヴェッジの統計学の考え方を導入して両者の区別を無化させる。かくして「不確実性」の計算不可能性は理論から排除されてよしと考えているわけだ。ここには幾重もの飛躍が見られるのだか、この点を方法論的錯誤とともに批判する声が小さい。このようなミルトン・フリードマンやゲリー・ベッカーあるいはリチャード・ポズナーにみられる確率観念に発狂したのが、あのベストセラーになったナシーム・タレブ『ブラック・スワン』(日本経済新聞社)なのだ。

 

 この主観的確率を司法システムのモデルとして上手く活用したのが太田勝造である。法学部時代に授業を通じてお世話になった方なのだが(ここでは呼び捨てで表現させてもらう。とはいえ司法試験や国家公務員試験の受験で忙しかったから、ほとんど授業に出てなかったけど)、教養学部理科一類から進学振り分けで法学部に進学した変わり種である太田勝造が東京大学大学院法学政治学研究科に提出した修士論文が元で出版された『裁判における証明論の基礎-事実認定と証明責任のベイズ論的再構成』(弘文堂)がその典型である。この書は、オンデマンド版なので若干値がはるのだが、ベイズ確率を裁判における事実認定などにおける司法システムへのモデル化の導入を果たしたことは、とりわけ民事訴訟法解釈学において曖昧な表現でしか書かれていなかった証明度に関して、裁判で具体的に何がどう明らかにされねばならないのか、裁判は事実認定をする際、何をやっているのかということについて明晰化することに成功している。

 

 民事訴訟とは、訴訟上の請求の当否を法適用によって判断する手続きである。そして法適用の前提として事実認定が欠かせない。当事者間の争いは、事実の存否についての争いがほとんどなので、適用される法規範にとって重要な事実の存否が解明されることが必要となる。裁判官は事実の存否につき口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果を斟酌して当事者の事実主張の真偽を判断する(民事訴訟法247条)。裁判所が事実の存否につき心証を形成できなかった場合にも裁判を行う義務があるので、その際にどのように裁判しなければならないかをめぐる問題が証明責任の問題である。裁判所は、原告の事実主張が適用法規の法律要件を充足するか否かを判断することから始め、原告の主張を正当化するのに必要な事実主張に欠ける場合は、裁判所は釈明権を行使するなどして補充を求めるが、それがなければ原告の請求を棄却しなければならない。原告の事実主張が十分な場合、次に被告の主張を検討することになるわけだが、被告の主張は原則として単純否認や積極否認または抗弁によって防御がなされる。被告の陳述によって原告の主張する訴訟の実体法上の基礎が影響をうけるかどうかが調査され、被告の防御陳述によってもなお原告の請求が正当化される場合には、この防御陳述については証拠調べは行われない。このことは、被告が相殺の抗弁を提出したはいいが、相殺禁止特約があったことを陳述するような場合、相殺の抗弁は法律上重要ではなく、たとえ反対債権の存否につき争いがあっても抗弁自体が失当なわけだから証拠調べは行われないことを考えればわかろう。

 

 さて証明とは、争いのある具体的な事実主張が真実であるとの確信を得させるべき当事者及び裁判所の活動であり、証拠申出と証拠調べから構成される。証拠の提出は弁論主義の下では原則として当事者の責任であり、当事者の証拠申出がなければ証拠調べが行われる。ある事実が真偽不明になって不利益を受けることを望まない当事者は証拠を提出しなければならないが、いずれの当事者が証拠提出責任を負うかは、証明責任の分配規範と一致するのが原則である。法は証明の目標につき完全証明と疎明を区別し、この区別の相違は証明度の相違である。証明度とは、裁判官がある事実主張が証明されたものとして裁判の基礎とするために必要とされる証明の強度である。判例はこの証明度を「真実の高度の蓋然性」と表現する。

 

 そしてこの証明の基準について未だ明確でない問題が存在する。すなわち、裁判官は事実が真実であることを確信しなければならないのか、それとも一定程度の客観的な蓋然性の存在を要求するのかという問題である。この点で著名な判例として「東大病院ルンバール事件」最高裁判決が参照されることが多い。この判例民事訴訟における因果関係の証明についてどの程度の蓋然性が要求されるかということに加えて心証形成の合理性の要求をも示唆する判断として考えられるからである。

訴訟法上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を検討し、特定の事実が特定の結果を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。

 

一見したら、最高裁はあたかも客観的蓋然性の存在を必要としているように読める。しかし同時に、「通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信をもちうるものであること」と述べているように信用性の度合いとしての主観的確率をも持ち出しているかに思える。客観的確率と主観的確率の関係についての錯綜が最高裁のこの判決文には見られるわけである。そもそも頻度解釈を採るならば、一回限りの出来事に客観的確率をあてがうことは無理がある。

 

 とはいえ裁判官の恣意的な判断も極力排除しなければならないだろう。自由心証主義といっても、それは裁判官の恣意的な判断や不合理な判断を是認するものではない。したがって、心証形成過程の合理性が問われるべきであって、この合理性の有無ある程度を定量的に確認する手段としての主観的確率が必要とされるし、最高裁の意思もそこにあると見るべきではないか。太田の著書は、事実認定における裁判官の心証形成過程の合理性をどう担保するかという問題関心に貫かれ、それがベイズ確率を使ったモデル化に現れているのである。