shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

芦部信喜と憲法第九条

芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法(第七版)』(岩波書店)が書店に並び、早速Amazonでも法律書憲法部門でベストセラー1位になっているようである(4月12日現在)。憲法解釈学の基本書の中の名著として多くの読者に迎え入れられてきた歴史からも、今回も相当な売れ行きになろうかと想像される(といっても、中身は第六版と大して変わらなく、新たな判例が若干付加された程度にとどまる)。今まで手に取ったことのない人は、これを機に、「歩く東大法学部」との異名をとった芦部信喜博士の名著を手に取って、その簡潔な文章とともに、憲法学の妙味を味わってもらいたい。

 

法学部や法科大学院で学ぶ者、特に司法試験受験を控える者にとっては若干物足りない分量であろうが、憲法解釈学を本格的に学ぶ前と、一通り学んだ後に二度読むと、いかに必要最小限度の知識がコンパクトにまとめあげられているかがわかるし、行間をしゃぶりつくすように読めば、噛めば噛むほど味わいが出てくる「スルメ」のような基本書であることが理解されよう。その意味で、民法解釈学における我妻栄の通称「ダットサン」と同様の深みがあるものと言えるだろう。このような簡潔な基本書をものすることができるのも、芦部信喜我妻栄が、憲法民法の国内外の文献を自家薬籠中のものにできたからに他ならない。

 

「日本国民必読の書」と言っても過言ではない。憲法論議をするならば、最低でも憲法解釈学の基本書を一通り目を通し、今日のスタンダードとなっている解釈体系を知った上でなされなければ、到底まともな国民的議論など期待できない。改訂前に蓄積された重要判例の情報を補充し、またそこに、高橋和之による必要最小限に抑制されたコンメンタールが付加される。必要最小限の事項を補充しなければならない要請に応えしつつ、同時に、憲法学の要諦、中でもその必要最小限の知識を可能な限り無駄な表現を省きながら、可能な限り平易な表現を用いて可能な限りに抑えた分量に凝縮した憲法学のエッセンスというべき芦部『憲法』初版の持ち味を削がない程度の分量におさめているところをみると、補訂に携わった高橋和之の苦心の跡がうかがえる。

 

芦部憲法学の特徴は、何といっても、憲法の実質的最高法規性という観念を重視する立場が鮮明に打ち出されている点である。その上で、憲法を「自由の基礎法」と位置づけ、個別の条文の上においても、13条に明文規定をもつところの「個人の尊重」原理を体系の中心にしつつ、それを単なる個人主義的思想の表現として捉えるのではなく、その他の実質的平等の観念や生存権思想をも視野に入れた重層的人権体系の中で意味を持つ「憲法上の権利」と位置づけ、かかる諸々の人権の尊重される国家・社会の実現のための制度的担保として憲法に規定される統治機構を定義する。このような考えは、芦部信喜が、近代憲法の成立から現代の憲法への変遷過程を中心とした歴史的沿革を重視したところにも反映されており、このことは、芦部憲法解釈体系にも、直接的あるいは間接的に影響している。

 

芦部は『憲法』初版の「はしがき」において次のように述べていた。

すなわち、憲法学を学ぶにあたって重要なことは、何より近代憲法の本質や制度の沿革、趣旨ないし目的を骨太に理解し、憲法のバックボーンを踏まえた諸議論をおさえつつ、憲法が国家権力を制限し一定の権能を各国家機関に授権する法であり、かつ制限し授権することによって人権を保障する法であるところに本質がある点に思いをいたし、かかる観点から憲法の意味やその現代における問題状況を検討し、国家権力の濫用から憲法を擁護する制度的装置のあり方を探究する心構えを持って、憲法における立憲主義自由主義・民主主義の相互の関係を理解することが肝要である。

 

もちろん、芦部信喜の学説全てが、最新の憲法解釈学においてそのまま妥当し続けているわけでは必ずしもない。少なくとも、個別の見解に関して然るべき批判がなされ、もはや学界通説とまでは言い難いたい箇所もないわけではない。しかも、基本書において書かれている諸々の見解は、最新の憲法学の到達した水準からすれば旧い。しかし、芦部信喜の学説が我が国の憲法学界に不可逆的な発展をもたらし、かつ初学者が先ず学ぶべきスタンダードを提供したことは紛れもない事実であり、芦部学説の成果は、今もなお色褪せていると言えない。ましてや、法学を学び始めた者が手にする憲法学の基本書としては俄然、スタンダードの中のスタンダードであることに変わりないのである。

 

なるほど、憲法学の学説と実務との乖離ということが言われて久しい。事実、芦部の学説が最高裁によって直接採用されたといえる事例は、そう多くはない。そのことは、民法学における我妻栄の学説や、刑法学における団藤重光のそれと比べるとわかる。いわゆる「判例・通説」とまでなって確立されたものが極端に少ない。とはいえ、こうした現象は、国家権力と直接的に緊張関係に立たざるを得ない憲法学の宿命によると言えなくもないし、また、そのことが憲法学者の営為の価値を棄損せしめることにはならない。むしろ、単に判例に阿諛追従するだけに堕ちては、憲法学の意義が疑われることになろうし、緊張関係を失うことが、ともすれば実際の政治に対してよからぬ影響を与えないとも限らない。さりとて、実務から一切見向きもされない見解を出しても、自己満足に陥ることになる。それゆえ、実務との緊張関係を保ちつつ、なおかつ実務も一目置かざるを得ない学説が学界からもたらされることが重要で、おそらくは実務もそうしたことを学界に期待しているものと思われる。

 

この点、芦部信喜の学説が、先だって述べた通り、最高裁判例に直接採用され判例法理にまでに確立したものに昇華されている見解を探すのは難しいというのが事実であるとしても、その学説は全く見向きもされないような奇異な見解であるわけではなく、憲法の理念を最大限尊重しつつ、その中から、できるかぎり現実的かつ具体的な合憲性判定基準を導き出そうとしている軌跡を見ることができるのであって、そのことは元最高裁判事も証言する。

 

こうした芦部信喜の学説そのものというより、その憲法解釈学のあり方に異論を挟む憲法学者もいる。安念潤司がその一例である。芦部が米国から持ち込んだ憲法訴訟論に関して、安念は「憲法訴訟論とは何だったか、これから何であり得るか」というエッセイを残している。安念の主張の趣旨は至って単純明快で、憲法解釈学の世界において流通している「憲法訴訟論」なる研究は、実定訴訟法理論をほとんど顧慮していないことによって辛うじて憲法学者内部の狭い世界で流通している奇妙な代物でしかないというものである。その典型的例証として持ち出されている言語使用として、「違憲の立証責任」なる用語が槍玉にあげられている。法律問題は原則として裁判所の専権に属するとの実定訴訟法理論の前提からすると、この「違憲の立証責任」なる用語は奇妙であると、安念は指摘する。もっとも安念は、憲法訴訟論を実定訴訟法理論の枠内でのみ議論すべしと主張しているわけでは必ずしもないのだけれど、同時に、訴訟法の十分な知識なしに訴訟や手続の法理を論ずることなど論外であり、そのような立論は法律論の体をなさなくなるだろうと危惧するのである。

 

実務家といっても、ピンからキリまで広範に分布するわけで、一部の「なんちゃって弁護士」に顕著に見られる傾向だが、彼ら彼女らが訴訟法をわかっているかといえば、些か疑問が供されるというのが実情であろう。実務上の型通りの話しか理解しておらず、その背景となる理論的裏づけについてはまるで無知というのがごまんといる。中でも、証明責任分配規範や既判力理論などに関して、実にいい加減な理解しかしていない弁護士がチラホラ存在する。もちろん、判事クラスの法曹となれば、そうしたこともないが、何人かの知人友人の弁護士は、証明責任規範と要件事実論とを混同して理解していたし(法律要件要素と法律要件事実との違いがつかない者がざらにいる)、既判力理論にしても、その前段階の訴訟物理論からまるでわかっていない。せいぜい旧実体法説くらいしか理解しておらず、当然その理論的問題点にすら気がつきもしない。何ゆえ学説が百花繚乱の呈を見せているのか全く理解が及ばない。だから、既判力理論との関連で、何ゆえ新堂幸司がわざわざ争点効という妙な概念を持ち出さなければならならなかったという苦労にも理解が行き届かないわけだ。ちなみに僕は、争点効という概念には反対の立場だし、だからといって訴訟法上の信義則を持ち出す判例の立場にも批判的だ。この点に関しては訴訟物理論に立ち返って再検討するのが得策であって、この訴訟物理論に関しては、ドイツで判例・通説の地位にある二分肢説が最もスッキリした見解だと考える立場である。

 

それはそうと、憲法訴訟論のすべてを無意味だと裁断するわけでもない安念は、憲法訴訟論の一応の功績として挙げられる違憲審査基準論の普及を取り上げる。安念が取り上げているのは、いわゆる「森林法違憲判決」の審査基準論をめぐる議論だ。安念は、これら議論を「愚にもつかぬ評定に明け暮れて馬鹿馬鹿しくならないのだろうか」と述べ、他の憲法学者(想像するに、石川健治東大教授あたりを念頭においているのだろう。というのも、石川健治は、薬事法違憲判決とともに、この森林法違憲判決を熱く論じた論考を残しているからである)を挑発するかのような文句を残している。

 

確かに、「森林法違憲判決」なら、その背後にある近代的所有形態に対する視点を持った判例評釈の一つや二つあってもよさそうなのに、「所有権論」をまともに論じたものはない。その意味では、安念の愚痴も理解できないわけではない。しかし、そういう安念憲法学者の一人であって、安念自身が「暇潰しの芸能の伝承者」として居直るばかりなく、そういう立論を大々的に展開する労苦を厭わずやり続ければよかったのではないかと愚痴を言いたくもなる。なにも「法と経済」にかぶれて規制改革会議のメンバーとなるばかりが能ではあるまい。

 

近代憲法の重要な特質はその立憲主義にある、と最近では誰もが口にする。この言葉は、一般には安倍晋三政権が進めた集団的自衛権行使を限定的に容認した閣議決定の後に成立した「平和・安保法制」をめぐる反対運動の中で俄かに注目を集めた言葉である。憲法学を多少かじった者からすれば耳馴れた言葉だし、なにより芦部の基本書と並んで多くの読者に恵まれた佐藤幸治憲法』(青林書院)には、「立憲主義へのアフェクション」がやたらと強調されているほどだ。

 

この立憲主義憲法前文及び第九条に規定される平和主義との関係について、長谷部恭男の主張は、政治的リベラリズムの考え方を援用するかたちで、立憲主義それ自体としては、個々人の「善き生」の追求に直接関与するものではなく、あくまで比較不能な価値観を持つ個々人が各々に「善き生」を追求していくための、いわば「共生」のための最低限の基盤、更に言い換えるならば、それ自身直接的には「善なるもの」とは独立の関係にある。その意味において、立憲主義は「不自然」でもあると長谷部は言う(もちろん肯定的文脈でだ)。この前提を踏まえた上で、憲法第九条とりわけその二項の解釈について自説を述べている。

 

長谷部の見解の特質の一つは、それ自体「善なるもの」とは関与しない「基底としての立憲主義」からすれば、憲法第九条を具体的諸問題に対する結論を一義的に規定する準則(rule)として解することはできない。とりわけ、その二項に具体的明文規定が存する戦力及び交戦権の否認の文言は、目指すべき重要な価値や目標を定める原理(principle)としての意味を持つに過ぎないというのである。そして憲法第九条は、防衛力の保持が可能な限り極小化されるべきことを要求しながらも、その文言からは、自衛のための必要最小限の実力装置の一切を認めないという結論を一義的に読み取ることはできない。よって第九条は、いかなる必要最小限の武器の使用を伴った自衛権の行使を否定するものでもなければ、自衛のための必要最小限度の「実力」の保持をも禁じるものとまで解釈することはできないとの見方を提示する。なぜならば、第九条を準則と解し、第九条の規定が明文通りにわが国の戦力と交戦権の完全否定を義務づける規定と解するならば、それは国民の生命・財産等を何らかの外部からの武力行使に裸のままで曝すことを意味し、個々人が各々異なる「善き生」の追求を保障する基盤までをも崩すことにつながりかねないからである。そう長谷部は説明する。

 

続けて、「非武装中立」を国是とする憲法を有するこの日本に生き、それを支えていく生き方こそ「善き生」につながるものと位置づけている者にとっては、第九条の規定が「必要最小限の実力」を含む一切の「戦力」の不保持及び交戦権の否認を義務づける準則(rule)であるとの解釈を受け入れることが可能であっても、「善き生」の追求には、その前提として少なくとも外部からの攻撃から生存が守られるだけの安全保障が担保されねばならず、したがって安全保障のための「戦力」の保持や交戦権自体を否定するわけにはいかないという考えを持つ者にとっては、自身の「善き生」の追求そのものを否定することに、より正確にいうならば、そうした比較不能でかつ共約不可能な存在との共存の基盤自体をこそ崩壊せしめる契機ともなりかねない。よって、憲法第九条を準則と解し当該規定を文字通り徹底して遵守しようとする「非武装中立論」は、立憲主義と最終的には不整合をきたすことになるというのである。

 

しかし、果たして準則と原理とを分かち、第九条を後者として位置づけるこの長谷部の解釈は説得的であるのだろうか。まず、立憲主義は一切「善き生」の追求に関与していないとまでいえるのか。つまり比較不能な個々人の「善き生」の追求のための最低限のそれ自体価値中立的な共通の基底と解することができるのかが疑わしい。この問題は、「善き生」の追求と「正義の基底性」という井上達夫の議論にも関連することだろうし、延いてはリベラリズムコミュニタリアニズムとの関係にもコミットする問題であるだけに根が深い問題かもしれないが、いずれにせよ、こうした思考の前提には基底としての立憲主義をそれ以外の主張と整然と区別でき、かつそれをメタレヴェルにおけるとする考えと同じかまたは極めて酷似するものと見なせる思考が潜んでいるように思われる。であるならば、こうした二元的秩序を頭ごなしに押しつけることもできないではないかという疑念をつい抱いてしまいたくもなる。少なくとも、その主張も一つの「善き生」の追求に他ならないではないかとの疑念を払拭するに足る説得的な理屈がない。また逆に、第九条を戦力及び交戦権の否定を義務づける準則として国に課しているわけではないとする解釈自体が、基底としての立憲主義を突き崩す契機にはならないと果たしていえるのかどうか。むしろ、そう考えない人も存在するだろうことが想像されもする。

 

次なる疑問は、長谷部の解釈では政治的マニフェスト説と大して変わらない見解であり、しかしそうなると第二項の解釈が難しくなる。第一項だけなら、そう解釈する余地もあろうが、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と明記する第二項の具体的文言までをも原理(principle)と解することは相当無理筋の議論ではないだろうか。第二項の英語原文にはこうある。

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. the right of belligerency of the state will not be recognized.

 

「その他の戦力」としてぼかされているが、other war potentialと表現されているように、戦力となりうる潜在的能力まで含めて保持を禁じられているわけである。原理というより明らかに準則であって、これは日本の武装解除条項以外の何物でもない。

 

ここ数年、メディアに登場する機会の多い井上達夫は、このような条文を憲法に掲げなら世界有数の軍事組織を持つ現状は世界からの疑念を招くだけでなく、何よりも何らの軍事力統制規範を持たないままで実際は巨大な実力を持つ組織を持っていることの危険性を説き、これを長年放置してきた護憲派改憲派双方の欺瞞を告発する。そして、憲法第九条の、少なくとも第二項については削除すべきことと、権力統制規範を明記した憲法に改正すべきことを主張している(この点では、井上と僕とは同意見である)。

 

この主張は、ある意味でかつての自衛隊制服組の頂点にいた栗栖弘臣統合幕僚会議議長のいわゆる「超法規的発言」と問題意識を共有しているとも言える。栗栖は東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官試験行政科を首席合格して内務省入りした元官僚である。それゆえ、法的不備への問題意識は切実なものであった。もっとも、井上達夫栗栖弘臣とはその政治的意見は真逆の立場であるが、こと有事が迫った時に具体的にどのような問題が生じるかに関する危機感は共有していたのである。

 

井上の主張への賛否にかかわらず、護憲派憲法学者は誠実に応接すべきと思われるが、残念ながら立憲主義そのものについては発言するけれども、具体的な第九条の問題については消極的な姿勢のままで真正面から議論の場に出ようとしない。僕は、井上達夫リベラリズムの主張に賛同する者ではないが、少なくとも井上は安倍政権の御用イデオローグではない(ずっと前から説を曲げていないし、むしろ安倍政権に対しては批判的立場であろう)。学者としては相当誠実な人物であって、正面切って議論を吹っかけているのだから、護憲派憲法学者も正々堂々応じてもらいたいし、そういう議論の場がなければ、憲法をめぐる国民的議論など成立するはずもないだろう。