shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

暴排条例の廃止を

 警察による六代目山口組壊滅作戦の一環なのだろうか、警察当局は暴力団排除条例をちらつかせることによって、六代目山口組総本部がある神戸市灘区篠原本町の住民に対して、ハロウィンでの恒例となっている山口組からの子供たちへのお菓子のプレゼントを受け取らないようにと指導しているらしい。この恒例行事は、数年前に近所に住む事情も知らぬ外国人の子供がハロウィンの日にお菓子をねだりに山口組総本部を訪ねたことがきっかけで始まったという。当初、ハロウィンがどういう行事か知らなかった山口組総本部にいた幹部たちは、インターネット等でハロウィンがどういう行事なのかを調べ、そこから近所の子供たちにお菓子をプレゼントすることを始めることになり、今ではこの地域の恒例行事となったわけである。

 

 「暴力団追放運動」を行っている住民もいるかもしれないが、住民の多くは山口組に対してさしたる悪意を持ってはいないと言われる。その証拠に、多くの子供たちが総本部にお菓子をもらいに駆けつけることを大人が咎めることはしていない。むしろ、山口組総本部があるためにかえって治安が良好であるとも聞く。それもそのはず、組員がパトロールしているから変質者が夜道を歩く女性を襲う犯罪もなければ、ひったくりもない。泥棒も総本部近くの家に空き巣狙いに出向く度胸のある者はいるまい。

 

 山口組は、阪神・淡路大震災で神戸市一帯が壊滅した時も活躍し、救急や自衛隊よりも早くから救援活動に取り組み、総本部内にある井戸水を住民に開放することはもちろん、全国から組員を招集してボランティア活動に従事させるほど徹底して地域住民のためになる行動を率先した。しかも、通常なかなか気がつきにくい女性の被災者の悩みを組の姐さん達が慮って生理用品も用意するなどきめ細かいボランティアをしていたことを忘れてはならない。この時の恩を住民は今も覚えていて、山口組の組員に感謝する言葉を残す住民もいる。そういうと、山口組は善意でボランティアを率先して行ったわけではなく、その後の復興事業にあたってシノギにありつけることを目的としてやったのであって、今回のハロウィンの恒例行事も住民懐柔のための一環でしかないと悪意に解釈する見方も返ってくるだろうし、警察もそう見ているのだろう。確かに、そうした意図がゼロであるとは言わない。しかし、阪神・淡路大震災という大惨事にあって、周りの同胞が切羽詰まった状態にある中で、単に後の復興事業でのシノギを見越して活動したに過ぎないというのはあまりに狭量な見方であり、むしろ義侠心が現れた末の行動だったという側面の方が大であろう。でなければ、被災者当事者の目線に立ったきめ細かな配慮などされようはずもないではないか。

 

 神戸市ではないが、僕の祖父母の家は西宮市の苦楽園にあるので(それもあって、僕の本籍地は兵庫県西宮市苦楽園〇番町となっている)、阪神・淡路大震災阪神地帯がまるで戦災により破壊されたかのような様相を呈していたことをよく耳にしていた。そのような限界状況の中で、機動力に優れた山口組の支援がどれほどありがく感じたかは想像できる。ハロウィンでの子供たちに対するプレゼントにしても、もちろん住民懐柔の意図が全くないとは言わないが、そういう要素よりも、ヤクザの人々は意外に子煩悩な人が多いという僕自身の経験からして、純粋に子供かわいさから出た行動だと思われる。ヤクザは時として対立抗争に巻き込まれ、油断も隙もないくらい異常な程の精神的緊張状態にさらされることがある。そういう世界に生息しているからこそ、かえって純真無垢の子供たちが愛しくてたまらないという感情にかられることが多いとも聞く。

 

 警察は、特に六代目山口組を壊滅させることを至上目的とするために、ヤクザというだけでその集団をディーモナイズ=悪魔視し、彼らやその家族も含めて「反社会的集団」としてヤクザが社会経済的に生きていけない世の中を作ろうとしている。その先にやってくるのは、警察官僚の利権が肥大化した管理社会である。神戸港の港湾荷役の組合から山口組を日本最大の任侠組織にまで発展させた三代目山口組組長で「日本一の大親分」と言われた田岡一雄は、戦後のドサクサにおいて「戦勝国民」と称して暴れまわった所謂「三国人」に対して警察が全く手をこまねいている時に、日本人の市井の人々の利益を守ろうと立ち向かった人物の一人だ。実際、警察にも表彰され、神戸水上警察署の「一日警察署長」を経験したこともあるほどだ。何も朝鮮人全体を総じて否定しているわけではない。事実として、一部の朝鮮人終戦直後にやりたい放題して土地を勝手に占領されて泣き寝入りを強いられた日本人が多くいたということを述べているに過ぎない。この理不尽な暴力に対して立ち向かったのが田岡一雄だったのである。このことは高倉健主演の映画「三代目山口組」にも描かれている。

 

 暴力革命によって政権転覆を企む反日を公言して憚らなかった左翼の連中に対して、内務省警保局がGHQによって解体されて実力を削がれていた警察力だけでは対処できなかった時に、木村篤太郎元司法大臣の打ち出した反共抜刀隊構想に多くの仁侠や的屋の人々が参集して日本の治安を守り抜いた功績を忘れてはならない。こうした功績も手伝って、日本ではかつて仁侠映画が一世を風靡したのである。都合のいい時だけヤクザを利用した後は、掌返して「暴力団追放運動」を煽動した警察に対して、特に山口組は反警察の姿勢を固めていった。その姿勢の頂点が、四代目山口組竹中正久組長の時だった(竹中正久の兄は戦前の特別高等警察によって酷い目に遭わされた経験を持ち、そのことから竹中自身も終生警察権力を憎み続けた)。とはいえ、「反警察」は即ち「反国家」を意味するわけではない。ヤクザであっても、いやヤクザだからこそ祖国愛は人一倍あって、いわゆる仁侠右翼と称される政治結社右翼団体全体から見ても多い。六代目山口組司忍組長の出身母体である弘道会の組員の中には政治結社司政会議を率いて精力的な愛国運動に邁進している者もいる。大日本朱光会を率い、全日本愛国者団体会議議長も務めた阿形充規先生も右翼の世界では誰もが知る人物だが、元はと言えば住吉会の大幹部だ。

 

 仁侠は単なる犯罪組織ではない。ヤクザとは、言うなれば仁侠道に生きる者たちの「同好会組織」であって、決して犯罪を主たる目的として組織された団体でもないし、特定の外国の意を汲んで政治活動する破壊工作員の集まりでもない。あるいは、日本社会の破壊を目的に活動する極左暴力集団のごときテロ集団でもない。通常のサラリーマン生活を持続するにしては余りにフーテンであり過ぎ、大人しく社会規範を守り続けていくにしてはエネルギッシュな荒くれに過ぎるたちの集団ゆえ規範逸脱行動が確かに目立つ集団であるにしても、そうした荒くれ者を一定の縛りをもって統率していく者がいなければ、社会生活の基盤が崩れさることにもなる。ヤクザとは、人間社会である限り一定の割合で出現してしまうアウトローたちを抱擁する「受け皿」でもあるのだ。そのヤクザの居場所をなくすことがこの日本社会にとってよいことなのか。

 

 暴力団対策法(暴対法)成立以後、ヤクザの行動範囲が狭まり、今までは代紋を表に出して活動していたヤクザが「地下化」したと言われる。つまり、ヤクザの「マフィア化」を進行させた契機が暴対法成立という出来事だった。その上に次は、暴力団排除条例が各都道府県議会で可決されることで、ヤクザ一人一人の経済行為やヤクザと何らかの取引をした世間一般の者をも処罰する制度的枠組みが完成した。「反社会的集団」との関りがあると認定されて所謂「反社リスト」に掲載されることで、ヤクザやその密接交際者は銀行口座も持てず賃貸借契約も結べず、その他諸々の経済取引が遮断されてしまっている。現代社会で生きて行くことは何らかの経済活動を余儀なくされるわけだから、一連の暴力団排除条例は、ヤクザやその密接交際者とリストアップされた者には普通の社会生活を営む権利すら許さないという生存否定の宣告である。

 

 この暴力団排除条例は明らかに憲法違反の条例だと思われるが、その疑念が持たれるからこそ、警察庁は「法律」の形で成立させるよりも、成立のためのハードルが事実上低い地方議会の「条例」の形で成立させることを急いだわけだ。というのも、法律として成立させるとなると、通常は内閣提出法案の形をとることになるので、当該法案が憲法に照らして適当かを問う内閣法制局の審議に付されることになるわけだが、内閣法制局としては合憲になるような限定解釈を捻り出そうとしてさえも違憲の疑念を払拭できないと考えるだろうから、国会提出前にストップをかけることになるだろう。ところが、地方議会は内閣法制局に相当するような法解釈の専門家から構成される部局が存在しないので、憲法上の疑念など大して意識されることなく議会に提出され、容易に可決させることができるわけだ。

 

 これまで最高裁違憲と判断してきた(法令違憲適用違憲かの細かな区別は脇においとくとして)法律は相当数が議員提出法案を元にしたものであって、逆に内閣法制局のチェックを経た内閣提出法案が可決されて法律として成立した後に違憲と判断されたことはほとんどない。地方議会にはこのチェック機能がないのである。例えば、暴走族が「特攻服」を着用して集会を開く行為そのものを処罰する広島市暴走族追放条例違憲であるかが争われ、最高裁の第三小法廷で3対2というギリギリで辛うじて合憲との判断が下された事件を思い出そう。実質的には違憲と判断されても仕方がなく、合憲限定解釈で辛うじて救済されたに過ぎないことが判決文に書かれていたわけである。これをギリギリ合憲と判断した最高裁ですら形式的に見れば憲法違反であることを暗に認め、県の立法技術の稚拙さを批判していたほどである。反対意見を述べた藤田宙靖裁判官は、無理やり肯定的に読み込んで合憲限定解釈を加えた上で法文を救うよりも、明確に憲法違反の条例である旨の判断をすべきと述べていた。同様に、この暴力団排除条例に基づいて検挙された事件の裁判において、当該条例の違憲性の主張がなされた場合、ともすれば違憲の判断が下される可能性はあるだろう。


 かつて、六代目山口組司忍組長の出所を間近に控えた中で、とってつけたような罪責を突きつけて次々と最高幹部の面々の身柄を拘束し、その度ごとに神戸の本部を家宅捜索し、どこまで被疑事実との関連性があるのか定かではない物までをも押収しているのではないかとの疑念すらもたれかねないほどの一連の捜索・差押手続をみるにつけ、いわゆる暴対法に基づき「指定暴力団」と指定された団体やその構成員ないし準構成員及びその家族は憲法その他法令の保障の対象外であるかの如き扱いを受けていることに批判的な声があがらないのは何ゆえなのかと思ってきた。「人権派」と称する者たちの偽善・欺瞞が透けて見えてしまう。

 

 六代目山口組司忍組長の逮捕からして明らかな違法逮捕であって、さすがに一審判決は無罪であったが、おかしなことに最高裁は有罪と判断し終結した。解釈に解釈を重ねに重ねつつ、はじめから有罪との前提で以って銃刀法違反の共謀共同正犯として処罰したわけだか、明確な意思連絡も立証されたわけでもないのに、推測を重ねて「黙示の連絡」などという理屈を弄して有罪にまで持って行ったのである。そもそも実行行為の一部すら分担しない者を正犯に問うこと自体に違和感を覚えるが、実務が共謀共同正犯否定説に立脚してはもはや成り立たなくなるとされる実情を受け入れ、やむなく共謀共同正犯肯定説を是としても、構成要件該当性判断につき厳格な判断が求められることは、共謀共同正犯といえども同じく共同正犯の正犯性を基礎づけるに足りる事実の立証なくしてはありえないことに何ら変わりないことからして当然である。

 

 これまでの数多の最高裁の判断は、共謀共同正犯を容易に認定しているきらいがあり、どうみても正犯性を肯定できるだけの事実の立証がなされていない事件についても共謀共同正犯の成立を認定しているが、正面きって共謀共同正犯肯定説をとることを明示し、かつ、その成立要件を明確にした「練馬事件」最高裁大法廷判決を改めて想起する必要がある。上記判決によると、共謀共同正犯に問うためには少なくとも特定の犯罪を行うために共同意思の下に一体となって互いに他人の行為を利用しかつ各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなして犯罪を実行した事実が認められる必要がある。そうすると、共謀の事実が実行共同正犯と同視しうる程度の強い心理的因果性ないしそれに類する事由が要求されるべきであって、そうした共謀共同正犯の認定に際しては、そのことを基礎づけ得る明確な意思連絡の事実が立証される必要があろう。にもかかわらず、こと六代目山口組の組長に対しては、「大まかな」だの「概括的」だのといった形容を付した上で「黙示の」意思連絡があったと憶測を重ねて、ボディーガードをしていた組員の拳銃所持について共謀共同正犯が成立するとの無茶苦茶な判断をしたわけである。共謀の事実すら肯定できたとはいえないにもかかわらず、二審判決や最高裁は有罪の判断をしたという「暗黒裁判」であったのが事の本質である。

 

 末端の組員に対しては、刑事裁判での不当な取り扱いだけでなく、捜査機関による取り調べ段階で拷問に近いような扱い、つまりは通常なら特別公務員暴行陵虐致傷罪に該当するであろう酷い違法行為がまかり通り、かつそれを社会もよしとしているきらいすらある。捜査段階での不公平な取り扱いは、ヤクザに対してだけでなく暴走族に対してもそうである。 要するに、ヤクザや暴走族というだけで、当然に認められるべき権利や法律上保護されるべき利益が蔑ろにされ、曰く「市民社会の敵」としていかなる手段を講じて撲滅しても構わないとの扱いが常態化している現実がある中で、これを真っ先に問題視するべき弁護士すら一部の例外を除いて無視を決め込んでいるし、マスメディアともなれば言うに及ばず。むしろ、治安機関のお先棒を担いで糾弾キャンペーンを展開することに抜かりない。普段は「人権擁護」を叫ぶくせに、こういった「アウトロー」の人間に対しては人権無視も構わないとする偽善・欺瞞を追及しない風潮は極めて危険な兆候である。

 

 もっとも、現実に発生した違法行為を放置せよというのではない。現に違法行為があれば捜査機関としては捜査を開始し、将来の公判等を見据えて必要性と理由があれば身柄を拘束し証拠の収集・保全に努めることは当然の行為である。ヤクザや暴走族は、別に国体破壊を目論む反日左翼ではない。むしろ、ほとんどが愛国心を持っている右翼ないしは右翼に親和的な思想や情念を持っている人々である。単に一般人に対するのと同様の基準で以って同様の取扱いをするべしという当然の要求をしているまでである。法と証拠に基づき、適正手続に則りつつ事案を処理していくというありうべき姿に努めるべきであって、その当然のことがなされていないことが問題なのである。


 こうしたアウトロー集団は、以前書いた通り、丸山真男から言わせれば市民社会の成員として相応しからぬ類型に属する人間と位置づけられるであろうから、いずれにせよこの社会がより民主化されようと、依然として「市民社会の敵」として遇されることになろう。所詮、市民社会はその秩序を維持する強大な公権力の存在を背後に控えさせておくほかに成り立ちようがないと考えられているからであり、その意味で市民社会と国家権力は「共犯関係」に立たざるを得ない。暴排条例がその典型である。社会の「害虫」と認定されたヤクザには生きる資格はないと迫る「市民」どもによって、「無菌化」された「清潔な」社会が到来する。しかしその「清潔な」社会が、より悍ましい「コンプライアンス利権」に群がる警察官僚という毒蝮の上に立っているだけの醜悪な姿を晒すことだってありうるのだ。

 

 一刻も早い暴力団排除条例及び暴力団対策法の廃棄が求められる(さらに、広島市の暴走族条例も廃止し、特攻服を着る自由を認めなければならない)。仁侠道は、我が国の文化伝統の一端を担ってもきた。この伝統を絶やしてはならない。世間から蔑まれ、警察からの苛烈を極める弾圧によって、家族の者の生存まで否定されようとしている厳しいご時世においても、仁侠道を貫き通そうと筋を曲げずに誇りを持ち続けている人々がいることを思い返すべきである。