shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

「改革」とは、即ち「粛清」の別称なり

鴉の鳴かない日はあれど、「改革」の絶唱が鳴り止む日はない。そう思えてくるほど、世間では、とかく「改革」の言葉が好まれる。「改革」されさえすれば全ての問題が解決されるかのような幻想が振りまかれ、見せかけの「特効薬」の効用書に惑わされた大衆が踊らされた挙げ句、悲惨な結末を迎えた事例は何度も反復されてきた。

 

特に、政界や財界から叫ばれる「改革」という掛け声には用心するに越したことはない。1980年代の中曽根内閣の行政改革、1990年代前半の細川内閣の選挙制度改革、1990年代後半の橋本内閣の財政金融改革、2000年代前半の小泉内閣構造改革、2000年代後半の旧民主党政権、最近の菅内閣と、まあ揃いも揃ってロクなことをしていない。

 

「身を切る改革」と称する日本維新の会も、「改革」の掛け声だけして、やっていることは日本の文化伝統を根絶やしにしかねない政策を提唱している。どれだけ不祥事を抱えた質の悪い党員が多いことか、有権者の目は余程節穴だらけなのがよくわかる。やはり、「民意」なるもので政治が右往左往されるようでは困りもの。もちろん、国家の統治権の行使に対して最終的に正当性を付与する権威又は権力は、憲法制定権力の主体であるところの「国民」であることに変わりないが、これは必ずしも具体的な有権者団と一致するわけではなく、あくまで観念的主体である。ましてや、その時々で付和雷同する「民意」であるわけではない。「あらゆる改革に反対である」という、反動ともとられかねない蓮實重彦の言葉は、今更ながら、なるほど至言と言うべきではないだろうか。

 

江戸時代における「三大改革」として歴史教育の場で称揚されてきた、八代将軍徳川吉宗による「享保の改革」、松平定信による「寛政の改革」、水野忠邦による「天保の改革」の結末を見ていくと、これら「改革」は、近年の「改革」騒ぎや「社会改良運動」の絶叫者の主張と同様、ロクな結果をもたらさなかったという点で、反復される悲劇=喜劇の中に位置づけられること間違いない。

 

家康・秀忠・家光の三代の世を通して徐々に確立されていった徳川幕藩体制は、四代家綱の治世になると、もはや将軍権力による独裁的支配という側面は鳴りを潜め、事実上は、酒井忠勝松平信綱などの補佐役による統治へと変貌していく。実際、家綱が亡くなろうとする時、幕閣連中は老中堀田正俊を除いて、将軍継嗣を皇族から迎え入れる案が大勢を占めていたほどであった。将軍とは、もはや安定した統治のための「御飾り」となっていたのである。

 

堀田が死の床についた家綱の枕元に赴き、五代将軍を弟である綱吉に指名するとの「ご遺命」を聞いたことで、結果として綱吉が五代将軍に就いたが、綱吉の将軍就任の最大の功労者である堀田正俊は、後々綱吉に煙たがられるようになり、遂には殿中にて刺殺された。その後は、元々二千石の家柄にすぎなかった牧野成貞や、百六十石の小身者の出である柳沢吉保側用人として権力を掌握し、譜代大名の力は徐々に削がれていった。幕府中枢におけるヒエラルキーの転倒が起こったのである。

 

六代将軍家宣の世になると、側用人として間部詮房が、そして侍講として一介の浪人の出でしかなかった新井白石が重用され、彼らが凡庸な家宣に代わって幕府の実権を手にする。特に、間部の権勢は頗る大きく、また木下順庵の愛弟子で当代きっての学者、儒学のみならず経済にも数学にも精通していた頭脳において「天下に並ぶ者なし」と言われた白石による統治は、文治政治の絶頂期を象徴する事象である。家宣により発令された宝永令は、家康時代の元和令の方針を抜本的に変更するものだった。「御飾り」の徳川将軍家を頂点に、将軍を補佐する幕府要人による事実上の統治としての「徳川ダイナスティ」の完成である。将軍の正室が「御台所」と呼ばれたのも、将軍の官位を従一位としたのも、この頃である。

 

しかし、間部・白石の壮大な企ては、志半ばで頓挫することになる。紀州徳川家から吉宗が八代将軍として江戸に入城するや否や、間部・白石の企ては頓挫、いわば「アンシャンレジーム」の復活がなる。それまで活気づいていた江戸の町は、吉宗入城後に様変わりし、経済は瞬く間に疲弊していった。その疲弊ぶりは、江戸市中に新築の家が一軒も見当たらなくなったと記する近衛摂関家の日記にあるほどの変容ぶりだった。

 

経済活動が衰えると、当然のことながら武士階級の生活苦が深刻となり、天領の年貢も大幅に増やされ、農民の生活も疲弊していった。加えて、幕府の財政再建のために米相場にも介入したため、その不利益が町人の生活にも飛び火し、町人までもがその被害を受けた。経済成長なくしては、どのような悲惨な末路を辿るかを示す好例である。増税による予算の捻出を主張する者に対する反証事例の一つにもなっているだろう。

 

百姓一揆などが頻発したのは、徳川吉宗の治世からであった。吉宗は、こうした事態に対して身分制強化を強権的に断行することで不満を封じ込めようとした。他にも、新たに本を出版することすら禁じた。のみならず、これまでの通説に反する一切の他説を論じることすらも禁じたのである。風紀を乱す輩には容赦なくあたり、少し派手な着物を身につけていようものなら、その場で身ぐるみ剥がされ没収されるという光景があちこちで見られたともいう。江戸町奉行大岡忠相を登用したり、目安箱を設置するなどの功績だけが注目されている一方、経済成長が滞るものだから、日々の生活や文化活動も疲弊し、社会全体として停滞する羽目に至ったという負の側面が教えられていないので、吉宗といえば、せいぜい「暴れん坊将軍」のイメージでしか捉えられていない。

 

ところが、吉宗が大御所として一線を退いた後に、頭角を現した田沼意次小姓組番頭格に就くと、田沼は徐々に能力を発揮し、遂には老中となり権勢を握ってからは、「田沼時代」と称される二十年間を演出した。田沼時代は「賄賂政治」が横行した時代である、と後世から批判されているものの、実際のところ田沼が金権政治の張本人であったのかどうか詳細定かならぬところがあり、後世の作り話であるとの説もある。

 

悪評にもかかわらず、田沼時代は経済発展著しかった。また文化面においても、本居宣長が『古事記伝』を執筆していた頃に該当するし、与謝蕪村柄井川柳上田秋成も活躍し、変人平賀源内が出現したし、『解体新書』や『蘭学階梯』が書かれるなど蘭学研究も飛躍的に発展した。林子平『三国通覧図説』、工藤平助『赤蝦夷風説考』が出版され、鈴木春信の錦絵や、その他浮世絵も普及してくる。これらは全て、吉宗の治世下では禁圧されていたことである。田沼は、これまでの幕府の経済政策を改め、商品経済化に対応するべく、次々と施策を実行に移した。経済も文化も活発化したのは、誰の目にも明らかだった。ちょうど、ギルドが西欧における市民社会形成に一定の役割を果たしたように、株仲間は、「お上」からの相対的自立性を持った「市民」の誕生の契機にもなりえた。このように、田沼時代とは、近代市民社会成立のための経済的・社会的素地が形成されるチャンスでもあったのである。

 

ところが、松平定信が「腐敗した」田沼時代の政治を清算することを目指して「寛政の改革」に乗り出すと、これら諸活動は再び禁圧され、経済活動も収縮していくことになった。『海国兵談』を執筆した廉で林子平は弾圧され、山東京伝も投獄の憂き目に遭った。「寛政異学の禁」により、学問研究が大幅に制限された。町人が髪結を頼むことを禁止し、菓子を食うことも禁止した。当然、景気が悪くなるので、「失業者」が大量に増える。そこで、これらの者を「人足寄場」を設けて収容する措置をとった。何のことはない、今で言う「強制収容所」である。

 

街から活気が失われ、「服装や性の乱れは、心の乱れだ!」、「風俗や有害図書はけしからんから、規制しろ!」と、独善的正義観念を他人に押しつけて回るPTAやNPOのオッサンやオバハンのように、風紀を乱す者を取り締まらんと幕吏が街を監視してまわった。堪忍袋の緒を切らした江戸や大坂の町人たちは、「ふざけるな!」とばかりに「天明の打ちこわし」として知られる暴動を連発したのである。

 

「白河の 清きに魚もすみかねて もとの濁りの田沼恋しき」と詠われたように、松平定信が失脚して後は、しばらく「エロ将軍」として知られる家斉の治世の下、文化文政の爛熟した文化が栄えることになる。「悪所」と呼ばれて繫栄した芝居町や吉原の遊郭に代表される花魁文化も栄に栄えた(もっとも、この時期は、元禄期までとは様相が変わり、男色は徐々に下火になっていた)。江戸市中で読み回された春画を目にしたことがあるが、これがまあ、今日のエロ動画より猥褻さが強烈なのもあって驚いたことがある。これまた、「いらんことしい」の水野忠邦による「天保の改革」で大弾圧を蒙ることになる。「蛮社の獄」が、その一例である。また株仲間も解散させられた。水野忠邦の上地令は、ある種の中央集権化の企てであり、この点は近代的契機とも言えるだろうが、しかし、総合的に見ると、やはり「天保の改革」は、我が国の文化や経済に負の結果をもたらしたと言うべきかと。人間は、原則として自らの欲望に素直な方が活き活きとなるものであるし、社会も発展する。無理やりに圧殺したところで、ロクなことにはならないのだ(こういう時、本居宣長ニーチェと並行して読むとよいだろう。もっとも、「宣長の徒」を自認する者としては、ニーチェよりも宣長の方が格段に優れていると言いたいわけだが)。

 

この点において、渡部昇一『腐敗の時代』の巻頭を飾る「腐敗の効用」は、日本エッセイストクラブ賞をとった随筆だけあって、面白く読めるエッセイである。ウォルポールが宰相の時代の英国を主に論じながら、日本の「田沼時代」や帝国陸軍皇道派青年将校などの話を交えつつ、それこそ「清き川」よりも多少「濁った川」の方が魚は生きていけるのと同様、(もちろん許容範囲はあろうが)社会には多少の「腐敗」があったとしても、全体としては健全に機能する場合があることを「腐敗の効用」として論じた文章である。

 

渡部昇一の政治・社会評論は概ねロクなものはないが、そのロクでもない著作の最たるものが『田中眞紀子総理大臣待望論-「オカルト史観」で政治を読む』(PHP)である(この点は、「お友達」の谷沢永一にも言えることだろう。しかし、ビブリオフィリアとしての渡部昇一谷沢永一に対しては敬意を抱いている)。この著作自体は、冒頭に書題の田中眞紀子総理大臣待望論が少しだけ触れられているにとどまり、後は、細川護煕の「侵略戦争発言」がどうちゃらこうちゃら、その嫁はんが上智の教え子で云々、EM農法がどうのこうのと、田中眞紀子とは無関係な内容が収録されている「看板に偽りあり!」という著作で、せいぜい3分もあれば読み通せるものだが、その巻末解説を谷沢永一が担当していたはず。

 

10年ほど前に、古書店で立ち読みしただけなので朧気な記憶ではあるが、確か、渡部昇一にドイツのミュンスター大学の名誉哲学博士の学位が授与されたことを記念するパーティーの席上で読まれた谷沢永一による祝辞が、その解説になっていたように記憶している。祝辞という性格もあるのだろうけど、その内容たるや、歯の浮くようなおべんちゃらのオンパレードで、渡部昇一の『英文法史』(これは、渡部がミュンスター大学大学院に提出した博士論文をもとにした著書。Magna Cum Laudeだそうだから、それなりに優れた論文だったのだろう)や、『イギリス国学史』等の専門領域での業績について触れた後に、歴史エッセイ方面での功績として司馬遼太郎と並んで日本人を勇気づけた人と褒めちぎる。その言葉は、かえって「誉め殺し」に映るほどであった。この席上で、谷沢が歴史評論とともに持ち上げていたのが、この『腐敗の時代』所収の「腐敗の効用」である。

 

この「腐敗の効用」という随筆は、谷沢に持ち上げられるまでもなく、豊富なレトリックがふんだんに散りばめられた、読む者を楽しませてくれる優れた随筆であり、日本エッセイストクラブ賞受賞というのも伊達ではないことは確かである。『正義の時代』(PHP)所収の「小佐野賢治考」と並んで、楽しく読める代物。渡部昇一には、他にもまともな随筆があり、『いまを生きる心の技術-知的風景の中の女性』(講談社)もその一つである。極端なウーマンリブの運動が騒がれていた頃に出されたこの著作は、上智大学の学生時代に岩下壮一『カトリックの信仰』(筑摩書房)を読んで洗礼を受け入れたカトリック信徒であった渡部らしく、概ねカトリック保守派の家族観に支えられた読み物になっており、ウーマンリブの極端な主張をやんわりと嗜め、常識を擁護する好著である。慶應義塾塾長を長年務め、晩年は東宮御教育常時参与として当時東宮であられた現在の上皇陛下の教育係を担った小泉信三博士の御家族の写真についてのエピソードがさりげなく触れられているのが、これまたいい感じ。オールド・リベラリストの良質な部分を見る思いがした(小泉信三共産主義批判の常識』(講談社)は分量が少ないので、簡単に読める共産主義批判の著作として便利)。

 

こうみると、一連の「改革」とは、社会経済の発展にとって有害でしかないことばかりやってきたとわかる。御本人は、その歪な正義感を満足させることができたのかもしれないし、繁栄を謳歌する者を羨んでいた者が、羨望の眼差しの対象だった者が零落していく様を見て溜飲を下げれたのかもしれないが、社会にとっては何ら益にはならなかった。思うに、これら一連の「改革」がなされず、例えば、田沼政治の路線が継承されていたならば、徳川将軍家を最高最大の封建領主とする「大名連邦」としての幕藩体制の崩壊を早め、維新前夜に模索された大君制度による中央集権国家(初代大君には、おそらく徳川宗家の当主が就任することになっていたであろうが)に早々に移行していたかもしれない。少なくとも、「外圧」によって触発された明治維新によって、表向き「王政復古」を掲げた薩長土肥藩閥政府が主導する極端な欧化政策とその反動としての国粋主義化に振り回されることなく、近代国家への移行が円滑に進んでいた可能性は大いにある。

 

慶長から寛永の世、すなわち社会の流動性が徐々に失われ、武士が「サムライ」から「小役人」と化してくるにつれ、そんな社会に反発するかのように、「傾奇者」たちが町中を暴れまわった。後の「旗本奴」や「町奴」の先駆けである。今日で言うところの「ヤンキー」たちが、「去勢された小役人」ども嘲笑うかのように、無法者として江戸市中を跋扈し、独特の文化の開花をも用意した。現在の暴走族の派手な特攻服、三段シートやテールや風防あるいは六連ラッパを装着した派手な改造単車、LEDや蛍光ランプなどで内装し、極端に車高調にして着飾れた四輪車、地方のヤンキー中学生が数万円から十数万円かけて卒業式のためだけに用意する刺繍ランなどなどの独特のスタイルは、この種の「傾奇者」の系譜に位置づけられるかもしれない。

 

しかし、奇抜な格好、傍若無人な振る舞い、性別構わずやりまくった放縦な性生活、自由で暴力的かつ刹那的な生き方などは、いつの世でも、「改革」を絶唱する者から極度に嫌われた。なぜか。既存の秩序を撹乱する要因となると恐れられたからだ。「腐蝕・腐敗」は断じて許すまじと意気込む「清廉潔白」な「改革者」は、系を撹乱する要因を排除しようと大弾圧に乗り出す。ある系の微視的初期カオスは、巨視的な系の振舞いを左右することがありうる。「改革」とは、かかる「微視的初期カオス」としてのある種の「ノイズ」の排除に乗り出すかのように、秩序におさまらぬ「異端・異物」の類の駆除に躍起になった態度の現れとも映る。そう、「改革」とは、その表面的なイメージとは程遠い「粛清」の別称かもしれないのである。