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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

日本におけるポストモダニズムと批評

柄谷行人(編)『近代日本の批評』シリーズ全3巻(講談社)は、Ⅰ-昭和篇(上)、Ⅱ-昭和篇(下)、Ⅲ-明治・大正篇から成る。各巻前半後半に分かれ、柄谷行人三浦雅士浅田彰蓮實重彦野口武彦が執筆した論文を叩き台にして共同討議を展開するというものである(野口は、Ⅲのみに参加)。

 

触れられている批評については概ね有名どころで、批評を通史的に読み通したことのある者なら誰でも一読したことがあるものが多く、そこに物足りなさを覚える者もいるかも知れない。例えば、谷沢永一『紙つぶて-自作自注最終版』(文藝春秋)、『明治期の文芸評論』(八木書店)、『大正期の文芸評論』(塙書房)に掲載されているものまでは網羅されていない。とはいえ、読後約10年ほどの歳月を経た今でも、その内容を思い起こすことがあるほど、楽しんで読めた書物であった。

 

もっとも、柄谷行人が「批評は文芸批評の範疇に収まるものではない」と言いながら、結局は文芸批評に偏ったものに終わっていて、社会科学方面の言説についての言及が少ないのが欠点である。「日本資本主義発達史論争」についても「主体性論争」についても触れられていない。疎外論と物象化論との論争については軽く触れられているにとどまり、この論争において廣松渉が果たした役割が正当に評価されていないという不満も残る。

 

これら論争は、社会科学のみならず文学や哲学・思想に深く影響していたわけだし、テーマがテーマだけあって、近代化論そのものを問うている論争なのだから、マルクス主義を取り上げるならば、相当程度突っ込んだ分析が不可欠であるはず。でなければ、戦後の丸山真男の言説についてもまともなことは一言も言えないし(丸山自身は講座派でも労農派でもないが、講座派的な史観が色濃く反映されているとも言えるし、そう見なければ、丸山の言説における「転回」の理解も困難になろう)、戦後の日本史学に深い影を落としていた講座派的な史観やそれに影響された知的言説一般についての分析・記述も覚束なくなってしまう。

 

こうしたことを無視して語られる批評史は、それこそ蓮實重彦が「『大正的』言説と批評」と題する論文で問題視していた、標語による抽象的イメージの交換だけで具体的な分析・記述を欠いた「大正的言説」とさして代わらないものと堕してしまうだろう。

 

小林秀雄マルクス主義との関係を見るのは悪くはない。事実、小林秀雄の批評は当初、マルクス主義的批評との対決により開始されたわけであるし、小林秀雄が、戸坂潤とのいわば「共同戦線」を企図していたと思われる節を嗅ぎ取るのは、とかく共産党サイドから「戦争協力者」として糾弾されがちな小林秀雄に対する一面的見方を相対化する上で必要なことであろう。しかし、「27年テーゼ」や「32年テーゼ」を出し、「福本イズム」の隆盛とその失墜を紹介するならば、講座派的な見方がマルクス主義陣営での覇権を握ったことの内実を丁寧に分析の対象にしなければ、共産党をめぐる評価について目が曇らされてしまう。

 

戦後の言説が当初、社会科学者によって先導された事実には言及するものの、ほとんど分析の対象から外されている。丸山真男の名は出すものの、大塚久雄の経済史学や藤田省三天皇制国家批判については皆無。丸山真男の政治思想史学上の「転回」についても極めて重要なことなのに、これについても言及なしである。蓮實重彦が、『現代日本文化論1-私とは何か』(岩波書店)所収の「『読みやすさ』という虚構:丸山真男『日本の思想』を読む」と題する論文にて、丸山の分析の然るべきところは今なお、現代日本社会の分析として有効性を失っていないと指摘しているにもかかわらずにである。

 

ちなみに、蓮實の丸山評については、この他にも山内昌之との共著『20世紀との訣別-歴史を読む』(岩波書店)でも見られる。例えば「タコ壺型」と「ササラ型」として取り出された思考は、ともすればジル・ドゥルーズの言う「リゾーム」の思考と通低するものと見ることができるものの、丸山には「比喩に賭ける意志」が欠けており、その分析が一定の有効性を持っていたとしても、引用しようという気を起こさせないものになってしまっていると述べていたはず。

 

様々な欠陥を抱えつつも、それでも興味が持てたのは、Ⅰの昭和篇(上)である。このⅠは、時局との緊張関係の中で書かれた昭和前期の批評を対象とするだけあって、討議自体も勢い緊迫感を伴うものになっていた。論者たちが言うところの「大正的なもの」との切断において紡ぎ出されていった昭和初期の批評の強度すら感じられる。蓮實重彦があれほどまでに福本和夫を評価していたとは意外だったし(確かに、福本和夫の知的水準は、当時の日本のマルクス主義者はおろか、モスクワの連中をも凌駕していたわけだけど)、保田輿重郎にもしかるべき分量があてがわれていたことには好感が持てる。

 

この昭和篇(上)は、扱う時期が関東大震災から終戦までの約20年と短いながらも、その内容がある意味濃すぎるので、柄谷の論文も2本に分けられている。ただ、文学界グループや日本浪漫派への言及が多いのに比べて、京都学派への言及が少な過ぎた。特に、西田は単純化されすぎているし、田辺元の西田批判や数理哲学の分野での貢献も無視されている。悪名高い「歴史的現実」だけを取り上げるのはあまりに酷だろう。

 

三木清を貶めたいためか、それとも戸坂を持ち上げたいためか、三木清が「噛ませ犬」に仕立てられる一方、戸坂潤への過剰評価は如何なものかと首を傾げないわけにはいかない点など問題は多々ある。さすがに、マルクスレーニン主義の「模写説」を無理くり擁護する戸坂の論説まで肯定するとなるとついていけない。

 

熊野純彦が指摘する通り、和辻哲郎マルクス理解の水準は高かったというべきなのに、和辻評価が著しく低いのは不当と言うべきだろう。また、高山岩男ヘーゲル研究や高坂正顕のカント研究は世界的な水準であったという廣松渉の評価を踏まえるならば、京都学派第二世代に対する正当な評価がない偏向ぶりも気になる。

 

しかも、戸坂潤を評価する割には、戸坂の主著たる『空間論』にはあまり触れず、『日本イデオロギー論』(岩波書店)所収の「反動期における文学と哲学」をやたらと持ち上げるなど、極端な見方で染め上げられているものだから、この辺りは異論を持つ読者も多かろう。

 

蓮實重彦中井正一の「委員会の論理」を持ち上げるのは、中井と蓮實の父蓮實重康が知り合いだからということが関係しているのかも知れないが(確か『齟齬の誘惑』(東京大学出版会)にも、「名コックス、中井正一」という、おそらく七帝戦での来賓挨拶として読み上げられた原稿にも触れられてあったはず)、いずれにせよ中井正一の難解と言われる「委員会の論理」は、実際に読んでみると、主張自体は最終節にほんの少し申し訳程度に触れられるにとどまり、それまではだらだらとした内容が綴られている。それだけに、蓮實の中井評価のポイントがいまいち理解できないものになっている。中井正一の思考は、むしろ経営学的思考と親和的であって、下手な経営学のテキストを読むよりは中井のテキストを読んだ方がよほどためになるはずだ。なぜ、日本の経営学者で中井正一を取り上げないのか不思議だ。まあ、単に知らないだけかもしれないが。

 

検討の対象になっている批評は限られているし、また偏りも目立つ。最もつまらないのが、Ⅱの昭和篇(下)である。戦後日本の批評を総ざらいし、三浦雅士の論文を叩き台にして論じている前半はまだましで、後半は浅田彰の略年表で誤魔化した短い文章の手抜きが目立ち、「こりゃ、ちょい酷いな」という感想しか漏れて来ない。確かに、短い期間の担当であるだけに、読むべき批評が極端に少ないということもわかるが(自分たちの営為を間接的に批判しているとでも言うのだろうか)、それもあって柄谷行人は「わが道を行く」という感じで我田引水にすぎる発言が多く、蓮實重彦といえば、「オイルショックには興味がなく、むしろ同じ年にジョン・フォードが死んだことに執着している」だのといった人を食ったような発言してるし、浅田による80年代の批評シーンの整理は教科書をまとめた淡泊なものでしかない。

 

もちろん、戦後に活躍した社会科学者からなる批評は考慮されていない。Ⅲの明治・大正篇は、この四人に野口武彦を加えた五人によって討議され、野口による明治篇の論文も、蓮實による大正篇の論文も非常に面白い。それだけに、Ⅱの浅田のレポートの手抜きぶりが際立つ。

 

日本の批評シーンにおいて、「ポストモダニズム」が盛んに論じられるようになったのは1980年代である。1970年代から徐々に、日本にもその言説が導入されるようになり、80年代に全盛期を迎え、それが90年代後半になると下火になっていった。

 

1990年代末には、批評の世界は完全にかつての勢いは見られず、社会のニーズも様変わりして「論壇」そのものが死滅に近い状態になった。世界的には冷戦終結、我が国ではそれに加えてバブル経済崩壊以降の長期低迷期に突入したことに相即しているのかもしれない。

 

象徴的な意味で、蓮實重彦が第26代東京大学総長に就任した平成9(1997)年に、我が国における「ポストモダニズム」批評は終わりを告げたと乱暴に言っておこう。また、潜在していた「ポストモダニズム」的言説に対する反発が、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの『「知」の欺瞞-ポストモダン思想と科学の濫用』(岩波書店)の紹介を機に一気に噴き出したことも追い討ちとなり、我が国における「ポストモダニズム」的言説は急速に萎んで行ったように思われる。

 

話を元に戻して、1970年代から80年代の批評シーンを顧みると、主としてフーコードゥルーズデリダの思考が、雑誌「エピステーメー」などを介して紹介された。例えば、蓮實重彦フーコードゥルーズデリダ』(朝日出版社)は、この「エピステーメー」に連載されていた文章を纏めたものである。この著書が昭和53(1978)年の出版であり、同じ年に柄谷行人マルクスその可能性の中心』(講談社)が出された(雑誌「群像」に連載開始されたのは、その5年前)。

 

遡ること昭和48(1973)年には、ジル・ドゥルーズのPrésentation de Sacher-Masoch : le froid et le cruelが『マゾッホとサド』として蓮實重彦訳によって紹介されていた。ドゥルーズによるフーコー論「新たなるアルシヴィスト」と、フーコーによるドゥルーズ論「哲学としての劇場」を収録した『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』として蓮實重彦の訳で出版された。昭和49(1974)年に出た蓮實の『批評あるいは仮死の祭典』では、ラストに収録されている「批評あるいは仮死の祭典-ジャン・ピエール・リシャール論」と併せて、フーコードゥルーズやバルトへのインタビューなどが収録されている。

 

また、フランス現代思想ほどではないが、米国のヘーゲリアン・マルクス主義フレドリック・ジェイムソンによるポストモダニズム批判も紹介され、『弁証法的批評の冒険-マルクス主義と形式』(晶文社)や『のちに生まれる者へ-ポストモダニズム批判への途1971-1986』(紀伊國屋書店)などが早速紹介されていたし、度々訪日していたジェイムソンは、湾岸戦争直後の雑誌「批評空間」の共同討議にも呼ばれているし、浅田彰柄谷行人磯崎新などが中心となって企画されたAny会議にも参加していた。

 

ポストモダニズム」の日本への紹介とともに、『朝日ジャーナル』などのメディアが、「若者たちの神様」として、当時京都大学助手で、『構造と力―記号論を超えて』(勁草書房)で一躍脚光を浴びた浅田彰が取り上げられたり、山口昌男の下で東京外国語大学助手を務めていた中沢新一の『チベットモーツアルト』(せりか書房)がサントリー学芸賞を受賞してベストセラーとなるなど、両者ともメディアから「ニューアカデミズムの旗手」と持て囃されたわけだが、想像するに、当時は左翼学生運動が急速に下火になっていった後、旧態依然としたマルクス主義に代わる新たな思想の風が吹くことが漠然と期待されていた状況だったのだろう。

 

とはいえ、反発ももちろんあって、例えば、浅田彰『逃走論』所収の「マルクス主義ディコンストラクション」に対しては富山太佳夫から批判がなされたし、中沢新一に関しては、東京大学教養学部の教員同士の「権力抗争」とが絡んだ「東大駒場騒動」の渦中に巻き込まれ、東京大学教養学部助教授採用案が教授会において否決され、刑事法学者渥美東洋が仕切る中央大学総合政策学部に拾われる。中沢の採用案に物言いがついたのは、「科学や数学の概念を理解せずに、それらを見せかけのファッションとして利用するばかりで、学問的にナンセンスな戯言を弄しているペテンではないか」という疑念が持たれたからである。正に、後の「知」の欺瞞の告発に先駆ける騒動でもあったのである。

 

その頃、蓮實重彦柄谷行人も急接近し、雑誌「現代思想」において、例えば「マルクス漱石」などの対談を繰り返し行われるようになり、昭和63(1988)年にはそのクライマックスとして両者の対談『闘争のエチカ』(河出書房新社)が出されたと言ってもよいだろう。「形式化の問題」に憑りつかれ、同時にオカルトに嵌っていた柄谷が、『批評とポストモダン』(福武書店)、『内省と遡行』(講談社)、『探究Ⅰ』(同)、『探究Ⅱ』(同)と立て続けに出版したのも80年代であり、こうした柄谷の営為に対して蓮實が「闘争の光景―『探究Ⅰ』を読む」というエールを送るなど、蓮實・柄谷の蜜月時代が続いた。日本におけるポストモダニズム擁護の「共同戦線」が張られていた時代とも言えようか。

 

蓮實重彦『帝国の陰謀』(日本文芸社)が出版されたのは、平成3(1991)年である。3年前に出された『凡庸な芸術家の肖像-マクシム・デュ・カン論』(青土社)の「副産物」として生まれたこの短い書物には、ベンヤミンの「複製技術」の問題系、デリダの「署名」や「散種」といった問題系、はたまたドゥルーズの「反復」と「シミュラークル」の問題系といった主題で編まれた織物となっており、「フランス現代思想」のちょっとした応用問題を解いている側面もある。さらに、この書物の一部をコンパクトにまとめた形になっている、「署名と空間」と題された発表原稿が『Anywhere』(NTT出版)に掲載された。

 

「近代」と呼ばれる特殊な一時期において、ド・モルニーというナポレオン三世の異父弟である「私生児」によってなされた署名が、どのような空間において機能したのかという関心の下、1851年12月2日に起こったクーデタと、そこから始まった「第二帝政」が、ことによると、20世紀後半に可視化されてきたポストモダンな状況を先駆ける意味を持っていたのではないかと、蓮實は提起する。このクーデタは、マルクスをして、『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』で「反復された笑劇(ファルス)」と書かしめたあの事件である。蓮實は本書で、マルクスですら掴み損ねていた「第二帝政期」に現出した、モダンとポストモダンの並行関係を読み取ろうとする。

 

蓮實によると、マルクスのこの断定は、政変によって開示された政治的空間を支えもする複製技術時代における「シミュラークル」の「祝祭」ともいうべき事態について意識的ではないというのである。オリジナルの「正統性」を欠いたいかがわしいイメージが無限に反復されることで、かえって「現実味」を帯びてしまう空間が、フランス第二帝政期に出現したというわけだ。

 

蓮實重彦などによって紹介されていたドゥルーズだが(小林秀雄は、その前からドゥルーズを読んでおり、そのベルグソン解釈に興味を持っていた。その小林秀雄が亡くなるのは、昭和58(1983)年である)、1980年代に、「ニューアカデミズムの旗手」浅田彰の『構造と力-記号論を超えて』が火付け役となってドゥルーズのブームが沸き起こり、大して読まれもしない単なるファッションとして世間に広まっていった。

 

この時期はまだ、「知」らしく見えるものが意匠として一定の機能を持っていたのだろうか。倉橋由美子『聖少女』で登場する、ポントリャーギン『連続群論』を携帯する少女の如く、『構造と力』を片手に持ち歩く変な学生もいたというのだから、後世の者からすれば俄には想像し難い時代だったわけだ。

 

蓮實重彦フーコードゥルーズデリダ』や中沢新一チベットモーツアルト』や宇野邦一『意味の果てへの旅-境界の批評』(青土社)などが矢継ぎ早に刊行された時期があった。

 

面白いのは、浅田彰に対する批判は、旧来の左翼から起こったということである。特に、マルクス主義者からの浅田批判が多かったことがわかる。何せ、日本共産党系の言論人も浅田彰批判を展開していたのだから、日本に「ポストモダニズム」がブームになった頃は、「ポストモダニズム」はマルクス主義批判の一つとして受容された側面がある。旧来の左翼が「ニューアカデミズム」や「ポストモダニズム」に対する反発を強くしていったのである。

 

90年代になると、ドゥルーズのブームは収束したかに見え、90年代後半のドゥルーズ自死の際は、雑誌「現代思想」や「批評空間」で特集は組まれたようだが、ブーム再来というわけには行かなった。一旦終息した後、2010年代に入ると、再び活況を呈してきたかのように、ドゥルーズ関連の書籍が刊行され続けた。

 

2010年代のドゥルーズ関連本の相次ぐ出版状況と、80年代のそれと異なる点は、80年代のブームが社会思想史(経済学部に講座が開設されていることが多いだろう)やフランス文学または表象文化論の領域といった、哲学以外の領域の研究者に支えられていたのに対し、2010年代のそれは、もちろん東大駒場表象文化論系の者によるものもあるとはいえ、主として哲学を専攻してきた若手研究者によりなる書籍が目立つようになってきたという点である。

 

但し、そうは言っても、哲学専攻者の中でドゥルーズを学位論文の対象に選ぶ者はごく少数であるというのが現状であり、まだまだ「壁」の存在を思わせもする。

 

しかし間違いなく、ドゥルーズやその他「フランス現代思想」の研究が、決して主流には到底及ばないものの、哲学アカデミズムでの「市民権」を徐々に得つつあることの証しとも言える。以前なら、研究テーマとして認められ辛かったドゥルーズやその他「フランス現代思想」の文献が、いわば哲学の「古典」として認められつつあるということかもしれない。こうした流れの中で、ドゥルーズその他「フランス現代思想」を学位論文などの主題にすることが憚られてきた暗黙の軛が徐々に取り外されて行った。

 

英米の哲学アカデミズムでは、いわゆる分析系の哲学や科学哲学ないしは従来の古典研究が主流を占めているので(もっとも、カーネギーメロン大学のような極端な傾向を持つところもあるが。ここは、数学専攻か計算機科学専攻かと見紛うような研究のラインナップであり、イスラエルの哲学にも見られる傾向であろう)、「フランス現代思想」が狭義の哲学の中核に据えられて研究されることはほとんどなかった。否、それのみならず、「フランス現代思想」への反発を強く表明してきたのは、哲学アカデミズムの中枢だったとも言える。ウィラード・クワインやデイヴィッド・アームストロング、トマス・ネーゲル、アドルフ・グリュンバウム、バーナード・ウィリアムズなど英米錚々たる哲学者が、また御当地フランスでもジャック・ブーブレスが公然と批判を展開していた。もっとも、たいていは不干渉を決め込んでいたが、いずれにせよ、「フランス現代思想」は、哲学アカデミズムの中枢からは閉め出されていたというのが実態である。

 

日本においても似たようなもので、あたかも東大系の研究者が「フランス現代思想」の研究者で席巻されてしまったかのように言う主張やら、「フランス現代思想」が哲学アカデミズムの中で権威を帯びるに至ったという主張やらが時折ネット上で散見されるが、端的に言って事実誤認である。東大であろうと京大であろうと、哲学アカデミズムの中で「フランス現代思想」が広まった事実などないし、ましてやアカデミズムにおいて権威を身に纏うに至った事実などない。

 

伝統的な本郷の哲学研究室においても居場所を持たなかったし(神戸大学から母校に戻った鈴木泉も、別に「現代思想」の研究者ではなく、元はと言えば、デカルトスピノザなど西洋近世哲学の研究を主戦場とする研究者であって、ドゥルーズの思考をその系譜に位置づけて解釈する立場から、現代フランス哲学に接近しているに過ぎないだろう)、駒場科学史科学哲学研究室でも同様。様々な分野が混交する表象文化論だとか比較文学比較文化のスタッフに「現代思想」を中心に研究する者が少数存在するという程度で、東大系哲学アカデミズムが「フランス現代思想」に偏っているという事実など見られない。

 

京都大学にしても、哲学の研究者は文学部と総合人間学部に散らばっているが、文学部の哲学専修や西洋哲学史専修、あるいは日本思想史専修や倫理学専修や科学哲学科学史専修を見渡しても、「フランス現代思想」の研究者は見当たらないし、総合人間学部の哲学系研究者にも存在しない。大阪大学でも、例えばドゥルーズフーコーを論じる檜垣立哉が所属するのは、豊中キャンパスにある伝統的な文学部ではなく、医学部などが移転した際に作られた吹田キャンパス内の人間科学部であり、しかも元はと言えば、ベルグソンの研究者だったわけで、多少軛がとれてきたと言える今でもなお、「フランス現代思想」の研究を専らとする研究者がアカデミズムの中で主要な位置を占めているなどという事実はないのである。

 

再度確認するように、若手研究者が研究テーマとして「フランス現代思想」を選択することを躊躇わせるほどに、隅に追いやられていたのが実態であり、その中で、西洋近世哲学や中世哲学を研究してきた層がドゥルーズなどを取り上げ、アカデミックな論文として認められる論攷を積み重ねてきたおかげで、漸く最近になって「現代思想」を学位論文のテーマにする者が出てきたというのが事実。スタッフの変遷なり、学術誌のバックナンバーを隈なく調べればわかる話である。

 

最近までは、哲学アカデミズムから批判されたり黙殺されるという形で遇されてきた「フランス現代思想」であるが、一般的にも知られるようになった目立った批判としては、やはり物理学者アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによる批判が大きな役割を果たした。しかし、ソーカルとブリクモンによる批判の内実が決定的な批判になったと言いたいわけではない。それなら、ブーブレスによる批判や、ある意味ではロジャー・スクルートンによる批判も既に存在したわけであって、ソーカルやブリクモンの批判は、単に数学や自然科学の用語を出鱈目に使用してナンセンスな戯言を抜かすのはやめろという主張が主で、この主張自体は至極真っ当なものであるが、それを超えた決定的な批判までには至っていなかった。

 

のみならず、ソーカルとブリクモンが特定の哲学的立場を忍ばした上で批判しているのではないかと思わせる内容も含むだけに、完全に同意できるわけでもない。大きく分けて三つの異なる主張がごちゃごちゃに混ざった批判になっており、その内説得力がある批判としては一つしかないこともあり、実はソーカル批判の射程は思われているものよりも射程は短い。

 

しかも、ソーカルとブリクモンの著作すら読みもしないで、「フランス現代思想」と耳にするだけで条件反射のように否定する知的不誠実な者を大量に生むという「負の副産物」を残したことも指摘しておかねばならないだろう。「フランス現代思想」の一部の論者に見られた知的不誠実を告発する真っ当な声が、知的不誠実な者が群がる蜜になっちまい、ドゥルーズすらも全否定するような酷い偏見も罷り通っている。

 

英米の哲学アカデミズムに居場所を持たなかった「フランス現代思想」ではあるが、しかし、その関連分野においては「フレンチ・セオリー」として、デリダ研究やフーコー研究とともに、ドゥルーズ研究も旺盛に取り上げられてきた。ところが、英国のエディンバラ大学を中心にドゥルーズスタディーズが盛んに行われ、研究叢書も刊行され始めていることからすると、徐々にではあれ、いわゆる「ポストモダニストドゥルーズという見方とは異なる、これまでの哲学者・哲学史家の系譜に位置づけられたドゥルーズという見方が時間の経過とともに浸透していくのだろう。

 

日本の哲学アカデミズムにおけるドゥルーズ研究「解禁」に先鞭をつけたのは、おそらく平成12(2000)年に刊行された小泉義之ドゥルーズの哲学-生命・自然・未来のために』(講談社)だろう。これを機に、江川隆男『存在と差異-ドゥルーズの超越論的経験論』(知泉書館)といった本格的な研究書が出され、雑誌「思想」に連載された論文をまとめた檜垣立哉『瞬間と永遠-ジル・ドゥルーズの時間論』(岩波書店)も世に出た。まとまった著作こそないが、鈴木泉もドゥルーズに関する論文を数篇執筆している。

 

興味深いのは、小泉も鈴木も、そして早くから『差異と反復』などの翻訳を手掛けていた財津理も西洋近世哲学の研究者であるということである(檜垣は確か元はベルグソンの研究者だったか)。ドゥルーズについて論じる山内志朗は、西洋中世哲学の研究者だ。なお、山内の『「誤読」の哲学: ドゥルーズフーコーから中世哲学へ』(青土社)は滅法面白い。ドゥンス・スコトゥスに関する学術論文を読みこなすまでの力量には欠ける僕にすら(西洋中世哲学の高峰は敷居が高く、何となく近寄り難いものを感じているけど、クザーヌスやライプニッツといった中世と近代の狭間の「近世」的思考に強く惹かれる者としては、本当は避けて通ることはできないのだろう。意外なことに、先端の確率論や確率の哲学に関心のある僕の周囲の者は、古代のヘレニズム哲学や中世の哲学が好きと言うのが多いのだ)、雑誌「現代思想」のバックナンバーを繰ってみればいいが、山内が若い時分に寄稿した論文や岡本賢吾との対談だけからでも、山内が優れた研究者であることは一目瞭然であった。

 

ここから見えてくるのは、やはり伝統的な哲学者の系譜に位置づけられるドゥルーズという像であろう。しかも、中世スコラ哲学、そしてスコラ哲学と近代哲学の狭間で思考を紡いできた17世紀近世哲学の研究者からも着目されるドゥルーズという像は、これまで「ポストモダニズムの旗手」ないしは流行の「フランス現代思想」の代表としてのドゥルーズという像が一面的に過ぎたことを告げ知らせてもいる(もちろん、どちらが正しくて、誤っているというものではないだろう)。ドゥルーズ自身、自らをスピノザライプニッツの研究者であることを自認していたわけだから、当然と言えば当然なのだろう。

 

フッサール現象学に元々関心があった研究者が、その延長線上でジャック・デリダやエマニエル・レヴィナスへと論域を拡大させていったのも、例えば、フッサールの『幾何学の起源』と、それに対するデリダによる本文より長い序説を読めば理解できる。この文章がフッサール現象学についての入門にもなること、そして特に「歴史的アプリオリ」の概念の理解をめぐってモーリス・メルロー=ポンティと対立する解釈を供するデリダの見解の方に分があること、そしてフッサールの思考には、デリダが指摘する「現前の形而上学」が色濃く反映されていること、この問題意識から「差延」や「散種」の思考が紡ぎだされて行ったこと等々なども容易に理解でき、デリダも元はと言えば、優れた現象学の研究者であったことがわかるはず。

 

だから、「フランス現代思想」の一部論者に見られるナンセンスな戯言を批判する指摘が全うな内容を持つものであったとしても、そのことから直ちに「フランス現代思想」を総まとめにして葬り去ろうとする主張に首肯するわけには到底行かないし(中には、「ポモ」だのと揶揄して済ませようとする者もいるが、これは論外である)、逆に味噌も糞も一緒くたにする乱暴な言動こそ、知的不誠実の謗りを受けることだろう。

 

広義の「哲学畑」の比較的若手の研究者によるものだと(どこまでを若手と呼ぶかは、はっきりしないけど)、全ては網羅できないものの、少なくとも僕自身が目にしたものでは、國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)、山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学-超越論的経験論の生成と構造』(人文書院)、渡辺洋平『ドゥルーズ多様体の哲学-20世紀のエピステモロジーにむけて』(人文書院)、小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ精神分析現象学』(人文書院)、近藤和敬『ドゥルーズガタリの『哲学とは何か』を精読する <内在>の哲学試論』(講談社)、鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究:出来事、運命愛、そして永久革命』(岩波書店)などで、これからしばらく「哲学畑」の研究者によるドゥルーズ研究書が量産されていくことだろう(どこまで長続きするかは疑問だけれど)。

 

そのこと自体は悪くはないものの、ちとやりすぎの感なきにしもあらず。哲学者は何もドゥルーズばかりではあるまい。ドゥルーズは確かに哲学アカデミズムにおいて研究対象として認知されてきはじめたこともあって、抑えられていたものが一気に噴き出るかのように量産され気味になるもの無理はない。

 

さらに言うなら、ドゥルーズよりも冴えた哲学者は他にいるのだから、哲学研究の全体の動向と出版業界の方向性に些かのギャップを感じてしまう人もいるだろう。哲学アカデミズムにおいて、ドゥルーズ研究はもちろんメインストリームを形成しているわけではない。あまりに偏りが生じれば、それはそれで研究環境も否応なく歪なものになっていく。もちろん、この責任は当のドゥルーズ研究者に帰されるべきことではないわけではない。

 

ドゥルーズ研究は、哲学アカデミズムでの「市民権」を得つつある。それはそれで、まことに結構なことなのだろうが、しかし同時に、ドゥルーズなり「フランス現代思想」の持っていた凶暴な思考が講壇哲学に取り込まれてしまうことで、その毒牙が抜かれてしまってはつまらない。

 

「哲学のヤンキー的段階」理解を追求したい僕としては、毒牙が抜かれるくらいなら、講壇哲学化されない方がいいと思っているが、とはいえ、出鱈目になってはどうしようもないので、なるほど、この塩梅が難しい。