shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

国際政治学の貧困と「御用学者」

今から3年ほど前、国会で可決した平和安全法制整備法をめぐる国会前での反対派デモがマスメディアで大きく取り上げられていたことは、まだ記憶に新しいはず。中でも、この法制を危惧するSEALDsを中心とする大学生等の若者の行動が目立った。おそらく、「3.11」以後の脱原発運動あたりから、これまで「政治離れ」していると言われてきた若者が声を上げ始めたことの延長現象とも見られる。「若者」が「大人」に比べて政治意識が著しく乏しいというのは、おそらく俗説だろう。

 

確かに、投票率だけ見ると、20代の投票率は上の世代に比べて低いかもしれない。しかし20代の場合、大学を卒業して「社会人」になるのは概ね22歳であり、政治経済的諸問題に直面する機会が少ない学生時代の分を差し引いて考えるべきだろうし、投票率の高さが、すなわち政治意識の高さを意味するのか疑問だ。例えば、新興宗教の信者が動員されるがままに投票行動する様を見て、それが政治意識の反映だと解するわけにはいかないだろう。過疎地の中には、町会ごとで投票する候補者を決めてから各自が投票するという妙な慣習を持つ地域だって存在する。誰かに言われるがままに投票行動する「大人」が果たして政治意識が高いと言えるかは、ちょっと考えればわかる。

 

現在や将来の、自らの生活がおかれる境遇を考えると、国会で議論されている議題が密接に関係していることの実感を伴って理解され始めたことが一因なのかもしれない。既存の政党や労働組合の動員だけからなるデモではなく、強固な組織的背景を持たない「若者」たちが個々の立場から声を上げ始めたことが、SNSやマス・メディアを通じて拡散され、それがきっかけとなって、ごく普通の会社員や主婦たちを巻き込んだ「国民運動」へと盛り上がっていき、やがてそれに呼応するように、労働組合や政党も次々と運動に参画するようになっていったというのが真相ではないか。特定党派の指示によって動員されたとする意見は、事態を正しく見ていないのではないか。

 

SEALDsの中心メンバーである明治学院大学学生奥田愛基が「民主主義を守れ!」・「立憲主義を蔑にする安倍政権打倒!」などと国会や首相官邸の前などで主張する姿がクローズアップされ、反対運動側の「ヒーロー」として祭り上げられることもあった。対して、この法制に賛成する者たちの中には奥田愛基個人を誹謗中傷する者がいて、ネット上には読むに堪えない罵詈雑言も溢れかえった。

 

また、安倍政権を擁護する意図を持って登場したとしか思われない言動を普段から弄しているジャーナリストや評論家あるいは研究者の類が、この一人の大学生を槍玉にあげて運動を戯画化して攻撃したり、あるいは、デモの中に民主青年同盟(いわゆる「民青」)という日本共産党系の団体の一員が参加していた一事を以って、「共産党系のデモである」と揶揄したり、酷いケースだと、中核派革マル派といった極左暴力集団の一味と同視するような非難を浴びせかけるなど、アンフェアな批判キャンペーンが展開されもした。

 

もっとも奥田は、そういう反応が出てくるであろうことは百も承知で活動しているわけだろうから気にかけないのかもしれないが、奥田の政治的主張に同意できない点が多々ある僕のような民族派右翼の立場から見ても、奥田糾弾キャンペーンの醜悪さは際立っていた。立場は真逆ながらも義憤にかられて、思わず奥田の活動を支持していたことを思い出す。

 

とはいえ、その意見には一つの錯綜が見られたことも確かだった。もちろん、発言の一部のみしか知らないので、ともすれば僕が彼の主張の趣旨をつかみ損ねているのかもしれない。だから、あくまでメディアを通じて知った主張内容という限定がつくわけだが、その錯綜とは、反対の対象が、①集団的自衛権行使を限定的に可能とする法制そのものなのか(政策論上の問題)、②現行憲法の解釈として違憲の疑いが濃厚な法制についての審議が十分に尽くされずに国会で強行採決されてしまうことに対する、立憲主義の観点から見た問題点なのか(法解釈論上の問題)ということである。

 

この混同は、奥田にのみ見られる問題ではなく、この法制に賛成する者にも見られた。大雑把に整理すると、4つの立場が考えられる。

 

①安全保障の観点から、集団的自衛権行使の限定的容認は必要であり、かつ憲法解釈上も、これを容認する法制は憲法違反にならないと解する立場。

②安全保障の観点から、集団的自衛権行使の限定的容認は必要だが、憲法解釈上違憲の疑いが濃厚であると解する立場。

集団的自衛権行使の限定的容認は不要であるが、憲法解釈上許容されると解する立場。

集団的自衛権行使の限定的容認は不要であり、憲法解釈上も許容されないと解する立場。

 

安倍政権や安倍政権の決定を支持する立場は①の立場であり、それに反対するのが②から④までの立場である。③の立場は論理的にはありうる立場だが、実際に③の立場を採る人を見たことがないので、ここでは②と④の立場だけ取り上げておけばいいだろう。

 

デモ隊の大多数は左翼だったので、④の立場の者が多かったのだろうが、あそこまで盛り上がったのは、④だけの立場にとどまらず、②の立場の人も包摂しうる可能性を持っていたからであろうと思われる。②の立場の者は、安全保障上の必要性に関して、集団的自衛権行使を認めることが必要であるものの、現行憲法解釈上認められないことは明らかなので、もし集団的自衛権の行使容認に踏み切りたければ、現行憲法を改正する手続きを行うことを先決すべきとする理由から反対を表明するのである。

 

反対する憲法学者は、もちろん④の立場の人も多かろうとは思うが、しかし露骨に④の立場を主張するものではなく、法解釈論上の問題に関して、研究者としての立場から所見を述べていたにすぎない。したがって、その所見は④だけでなく、②の立場をも包含するものであった。

 

ところが、反対者に対する批判は、専ら④の立場にのみ批判を向けていて、②の立場の者を説得する批判になっていなかった。②は、安全保障上の必要性に関する主張に関係なく、専ら違憲の疑いの濃厚な法律を成立させることに対して立憲主義の観点から反対していた。

 

対して、国際政治学者、中でも、安全保障に関する研究に携わっている者の多くは、安全保障上の必要性の観点から集団的自衛権行使の容認をすべきという意見を表明していた。つまり、②の立場と一部共通している。しかし、賛成するには、政策論上の問題点と法解釈論上の問題点双方をクリアしなければならないが、政策論上の問題に関して正当なことを論じても、法解釈論上の問題に関しては説得的論理を持ち合わせていなかった。要するに、政策論と法解釈論がごちゃごちゃになって議論されていたのが、あの当時の我が国の世論だった。

 

法解釈論上の問題に関して、憲法学者の中でも百地章西修などが解釈上容認できると主張し、国際政治学者の中からも、坂本一哉のように憲法解釈論上も許容できると主張する者が現れた。何度も報道で取り上げられたことだが、憲法解釈として、この法制が違憲の疑い濃厚と考える憲法学者内閣法制局OBそして元最高裁判事ら法解釈の専門家は大多数を占めており、アカデミズムにおいて相応の業績を残し評価もされている学者で言うならば、圧倒的大多数が違憲の疑いが強いと考えている。憲法解釈学を生業とする研究者の中で、百地や西のような解釈を主張する者は、かなり少数であるのが事実である。

 

国際政治学者の中には奇特な解釈を持ち出して合憲を主張する者もいたが、解釈上かなり無理筋のものであった。その主張内容とは、いわゆる「砂川事件」の最高裁判決の文言を取り出し合憲論をぶつという、多少法学を学んだ者ならば余程のアホでない限りおかさないだろう暴論であった。これは解釈論として破綻している。「砂川事件」は、日米安全保障条約に基づく米軍の駐留の合憲性が争点になった訴訟であって、わが国の集団的自衛権の行使を憲法が許容するかが争点になった訴訟ではない。のみならず、彼らが持ち出す判決文の一部は、判決主文を導き出すための中心的な理由を構成するレイシオ・デジデンダイとはなっていない。

 

法解釈学には独特の解釈のための技法があって、相応の訓練を積む必要がある。また論理だけでなく、具体的妥当性ある結論を導き出すための経験も重ねていく必要もある。我妻栄が言ったように、法解釈において重要なのは、一般的確実性を重んじつつも具体的妥当性に配慮した解釈の技術であって、そうした訓練を十分に積んだ法解釈の専門家の知性を舐めてはいけない。

 

憲法学者の議論は、国家の安全保障論上の必要性に関する議論とは直接関わりのない、専ら憲法解釈上の許容性に関する議論であったわけだが、生半可な知識で砂川判決の文言を持ってきて嬉々として合憲論を国会の場で発言するような真似を、某国際政治学者はすべきではないだろう。

 

安全保障政策に関わる国際政治学者は、憲法学者の場合と違って、政策論上の問題を強調するから賛成派が多数であるという。その理由は、中華人民共和国の露骨なまでの膨張政策に伴う安全保障環境の急激な変化や、北朝鮮、ロシア、中華人民共和国といった、我が国の周囲の核保有国に囲まれた地政学的リスク、その上、北東アジアの軍事的均衡状態が徐々に不安定化していく中で、米国との同盟関係を強化することが我が国の安全保障上有益であるとの判断が背景にあるからだ。その危惧が背景にあるからこそ、集団的自衛権行使を容認し、日米のパートナーシップを強化することで対外的抑止力を高める狙いがある。安全保障論からすれば、別に珍妙な理屈を弄しているわけではない。

 

結論から言えば、集団的自衛権行使の限定的容認は、憲法解釈上許容される範囲を逸脱しているがゆえに違憲性が強く疑われ、これを国会で可決したことは立憲主義にとって大きな禍根を残す。今後、当該法制に関する具体的事件が発生し、裁判所において憲法判断が下される機会が訪れようものなら、違憲の判決が下される可能性もあろう。

 

他方で、日本をとりまく安全保障環境は深刻化しており、特に中華人民共和国の覇権的膨張政策は直接・間接に我が国の安全保障上のリスク要因であるだけでなく、経済的にもカントリー・リスクとなって跳ね返ってくる恐れも否めないことから、当座は米国との安全保障上の緊密な関係を維持しつつ、迫りくるリスク要因に対処するための防衛力の強化・整備は不可欠であって、そのための集団的自衛権行使の限定的容認の必要性はある。したがって、②の立場に立つ。

 

そうすると、考えられる道筋は、真正面から憲法改正の手続きを踏んで国民の意思を問うことが先決であり、その上で中途半端でない法制を整備するという手順を踏むべきとなる。

 

我が国の国際政治学は、欧米のそれとは全く異なる様相を呈している。特に米国では大学のみならずシンクタンクが充実しているので、国際の政治経済状況に関する論文やレポートが飛び交い、金融業者の中でも政治的リスク分析のためにその類のものを読まされる機会がある。それを読むと、日本の国際政治学の状況がいかに歪な状況であるかがわかる。

 

戦後日本の国際政治学は、坂本義和に代表される「理想主義」の側と高坂正尭永井陽之助に代表される「現実主義」の側に主として分かれていた時期がしばらく続いたが、いずれも米国の国際政治学の主流とは異質であり、東西冷戦構造の二極構造がアカデミズムにも反映された状況が具現化したと言ってもいい。例えば、高坂正尭永井陽之助などは「現実主義」と括られて理解されているが、米国の国際政治学における古典的リアリズムやネオ・リアリズムには該当しないように思われるし、もちろん「理想主義」と括られる坂本義和リベラリズムであるとも思われない。

 

もっとも、こう見えるのは、僕が国際政治学ないしは国際関係論なる学問分野に関して門外漢だからかもしれないし、日本人研究者による国際的な学術誌に掲載される論文で理論的な仕事と言えるものがほぼ皆無で、あくまで政策論レヴェルでの議論に終始しているからこそ見えにくいという事情も関係している。

 

それゆえに、日本の国際政治学者で「現実主義」を掲げる者が関係する米国の研究者がリアリストではなくリベラリストとされる側で、逆に「理想主義」とされる坂本義和が古典的リアリストの代表的論者であるハンス・モーゲンソーに師事していたという奇妙な関係性が目立ってしまう。本来、ジョセフ・ナイJr.であったりジョン・アイケンベリーもリアリストではなくリベラリストに括られるはずだ。学者ではないが知日派ということにされているアーミテージにしてもリアリストではない。そして彼らリベラリストこそ、米国の一極的覇権構造の維持に拘り、対日封じ込めや中東の民主化などの米国の覇権を拡張する政策を推進してきた。

 

日本の独立を手を変え品を変え妨害してきたのも、またベトナム戦争イラク戦争といった侵略性が濃厚な戦争を推進または支持してきたのも彼らリベラリストであった。

 

オバマ政権は核なき世界を標榜し、広島や長崎の式典などに大使を派遣したり、オバマ大統領自ら慰霊訪問をし被爆者団体の代表者との接触も果たしたが、オバマは同時に約100兆円もの予算を新しい核兵器開発に投入する政策決定を下し、更には米国に好ましからざる者の暗殺を命じる国家安全保障覚書に最も多く署名した大統領である。このことを知らない者たちが、まるでオバマ反核・平和の使徒として好意的に評価するという滑稽を見せつけられたりもした。

 

こうした米国の動きは、何もオバマの見せかけだけの核兵器廃絶の理念に基づいて起きたわけではない。その背景には、北朝鮮によるミサイル発射実験や核兵器保有宣言がある。日本の周辺国で核ミサイルで牽制をかける北朝鮮に対抗するために核武装が必要と考える日本国民が増えることを危惧した米国が、国民の中の反核世論を盛り上げるために、被爆者団体や反核団体に大使館職員を通じてコミットするようになったというのが実際のところ。

 

日本とドイツは米国の潜在的脅威であり、戦後の米国の一貫した方針は何であれ日本とドイツを独立させないという基本テーゼに支えられてきた。中東の人間は米国の偽善に飽き飽きしているので、能天気な日本人よりはリアルな世界認識をしている。

 

逆に、リアリストは冷静な分析からの帰結として、米国の経済的覇権の相対的低下によって米国が圧倒的なヘゲモニーを維持することが不可能になりつつある現実を直視し、無謀なベトナム戦争イラク戦争にも反対する者が多かった。ロバート・ギルピンもそうだしケネス・ウォルツもそうだし、スティーブン・ウォルトもそうだし、ロバート・ジャービスやジョン・ミアシャイマーもそうだ。攻撃的リアリズムや防御的リアリズムに関係なく、リアリズムに立脚するリアリストは長期的に米国の覇権低下を加速させることになる無益・無謀な戦争を諫めてきたのである。

 

イラク戦争は合理的理由のない無謀な戦争であり、現に米国のまともなリアリストが警告した通り、その後の中東情勢は一層混乱の度を増している。その意味で、ナイやアイケンベリーなどのリベラリストは、結局イラク戦争を支持しその馬脚を現した。彼らは、米国の措かれた事態を冷静に分析するよりも前に、是が非でも米国の世界覇権を維持したいという願望を優先した手前、合理的判断を犠牲にしたのである。ある意味でイラク戦争は、国際関係の研究者としての言説の信用度や深浅度を判定するリトマス紙のような役割を果たしたと言える。

 

日本で「現実主義」の立場にあると自他ともに認識する者の多くがイラク戦争に賛成してきたし、その際相当無理筋な屁理屈を弄して米国の行動の合理性と正当性を擁護する活動に勤しんでいたことを想起しよう。米国の「保護領」に甘んじることこそがリアル・ポリティクスに基づく現実的な選択であると言わんばかりの言動を続けてきた。北岡伸一田中明彦から中西寛や坂本一哉や村田晃嗣などに至るまで、こぞって盲目的と言える対米追随外交を宣伝してきた。その主張は、アングロ・サクソンと懇ろにやっていけば済むと言っていた岡崎久彦田久保忠衛のような従米派のそれと変わらなくなっていた。

 

しかし、こうした主張をする者は、実は米国の「知日派」とされている者に踊らされた主張をしてくれる者として表向き歓迎されているとしても、国務省国防総省のアジア担当者からだけでなく、当の「知日派」からも裏では軽蔑の眼差しにさらされている。どこの国の人間でも独立自尊の志のない者は軽蔑される。リベラリストとされる国際政治学者や「知日派」とされている外交担当者が、実は最も日本を軽蔑しているし、ことあるごとに日本の台頭を抑えてきた。

 

逆に、リアリストのウォルツは、殊更日本に関心があるわけではないが、それでも日本と米国の国益が常に一致するとは限らず時には対立することもあるし将来的に国際政治のパワーバランスが変化して米国の北東アジアでのプレゼンス後退という事態に至ればますます国益の対象の不一致は増すわけだから、日本外交が対米追随姿勢を一貫することはむしろリスクを高めることに繋がるという長期的視野に立った判断が要求されるし、そのためには日米同盟を基軸とする当座の方向性は是としても、日米同盟への過度な思い入れを止めてもう少しフリーハンドに近い外交政策を模索しなければならないと言う。

 

軍事力の背景のない外交などというのは所詮は絵に描いた餅でしかないので、日本もいずれは自主防衛能力の向上に向かわざるを得ず、その際は日本の核武装の選択も視野に入れざるを得ない。

 

ところが、日本の「現実主義」と呼ばれる国際政治学者や安全保障論を研究する者は、米国が日本の自立に反対していることを知ってか、日米同盟の重要性だけ強調し、自主防衛能力の向上を含めた対米自立を語ろうとは決してしないし、むしろ逆にそうした自立化を求める言説を潰しにかかろうとさえする。日本の国際政治学者にはそうした視点が欠けている、いや少なくとも欠けていると思われても仕方がない主張を展開する者が多く、一層不安になってくる。もちろん短期的に言えば、日米関係こそ日本外交の基軸であることに変わりなく、それを無視して「東アジア共同体」などという世迷言に加担するのは論外である。

 

長期的視野に立った外交戦略を立案できない日本の国際政治学の貧困は、そのほとんどが政策論レヴェルでの議論に終始し、国際政治そのものをどういう基本的枠組みのもとで把握するのかとうパラダイムに関わる議論が決定的に不足していることに端的に現れている。日本の国際政治学の現状は、真に理論的と呼べる比較的抽象度の高い研究の層が薄く、外交史や地域研究の研究者がとりあえず国際政治学者を名乗っているケースがほとんどだ。外交問題で覚えがめでたい北岡伸一にしても専門は日本政治史だし、藤原帰一にしても確かに坂本義和に師事し最近でこそ国際政治学者として認知されてはいるが、元はといえばフィリピンをはじめとする東南アジアの地域研究者であるわけで、国際政治理論そのものの研究者ではない。

 

確かに、古典的リアリズム以前までの国際政治学の研究は外交史の研究に偏っていた。モーゲンソーにしたって抽象度の高い理論をものする能力に欠けていた。ウォルツのネオ・リアリズムの登場によって理論的と呼べる研究内容に進化したのは、ごく数十年前の出来事にすぎない。

 

全く賛同はできないが、アレクサンダー・ヴェントはこのレヴェルにまで踏み込み、Social Theory of International Politicsを著しウォルツの敷いたネオリアリズムパラダイムに挑戦する者の一人となり、最近では近代社会科学のパラダイムそのものを解体し量子論的社会科学なる胡散臭く見えるQuantum Mind and Social Scienceまで書いて基礎的次元から国際関係論の再構成を果たそうとする。

 

日本の国際政治学者にそこまでの仕事を期待をするのは無理としても、国際政治学は歴史が浅いこともあって、学問としての基礎づけの必要を感じて著したウォルツのTheory of Internatinal Politicsのような理論的な仕事がほとんど存在しないことが、政策論レヴェルにおいてもアドホックな主張しかできない日本の国際政治学の貧困を端的に物語っている。だから語られることはといえば、理論的な裏づけのない「床屋政談」に毛が生えた程度の立論しかできないという状態に至る。

 

リアリストであるからこそ、米国のイラク戦争は米国のヘゲモニーの長期的低下傾向を加速させることにしかならないことや、単純な対米追従姿勢は日本の国益を棄損することになりうることへの危機感を表明する者がいてもおかしくはないのに、「現実主義」をうたう陣営の国際政治学者からそうした声がなかったのも、結局彼ら彼女らがリアルポリティクスに立った長期的視点など持たず、徒に対米追従姿勢を強化させる政権の意向を組んで発言しているだけではないのかとの疑念を生んでしまうわけである。

 

政権と意見が一致するからといって、この研究者を直ちに「御用学者」と断言するのは、もちろん暴論である。それなら、政権の意見に反することを主張する研究者は野党の「御用学者」なのか、と返す刀で斬られるだけの無毛に陥る。

 

では、「御用学者」という言葉は何もかもをタメにする符丁でしかないのかというと、必ずしもそうではない。世間には、特にメディアに頻繁に登場する研究者の中には「御用学者」との疑念を持たれても仕方ない者が、確かに存在するからである。ただ、その識別が難しい。

 

一番わかりやい例は、政権または政権に近い者から、直接的もしくは間接的な利益が供与された結果、その政権の主張を無理くり屁理屈を弄して肯定する者。こういう者は、研究者よりも評論家やジャーナリストに目立つ。あからさまな擁護を展開する者は、「御用イデオローグ」と言われても仕方がない。但し、このレヴェルの研究者を見つけるのは難しい。

 

次に、研究者としてさしたる業績もないのに、やたらとメディアに露出したり、政府の委員会のメンバーに選抜されている者で、それ以前の主張と比較して、明らかに政権の都合に合う言動が多くなってきた者は「御用学者」と疑われるだろう。ましてや、政治や経済に関連する領域を研究する者が、政権に誘われて会食したりすることは、ただでさえ政権との適切な距離を確保しなければならない職業上の倫理があろうところ、いかにも無防備と言われても仕方がない。

 

もちろん、政権の側が研究者の知見を参考にしたい場合、会食の場を設けるという選択はあるだろう。今後の我が国の科学技術政策に関して、理論物理学者としての長期的視点に立った意見を拝聴したいと政権が思うこともあろう。その場合、その理論物理学者の研究内容と政権の政策とは直接の関係はない。

 

ところが、政治学や経済学の場合は事情が異なり、ともすればその研究者の研究内容とも直接絡むことが多い。そのことによって学問研究が歪められてしまう危険性は大いにある。だからこそ、用心深く政権には応接しなければないわけだが、そうした用心を欠いたまま政権からの誘いに嬉々として馳せ参じ、その後は露骨な政権擁護の主張を始めたとなると、この者は既に政権に手なずけられたなと疑われても弁明のしようがない。

 

同じ領域を研究する者の中に自分より業績を持つ者がいるにもかかわらず、なぜ自分が呼ばれるのか、なぜ自分がメディアに重宝されているのかということを深く自省することなく、政権の誘惑に乗せられている姿に対して寄せられる「御用学者」という批判が、故のないレッテル貼りだと反論できるのか。なぜ他ならぬ自分がメディアに重宝され、時には政権から何らかの接触が図られるのか、そこには何らかの思惑が絡んでいるはずだと疑ってかかるのが全うな知識人の態度であろう。特に、広義の政治に関わる研究者には、現実の政治との関係において用心深さが求められる。

 

予想される批判に対して、単に故のないレッテル貼りだと居直るのではなく、そういう疑念を持たれかねない言動をしていないかを再度自省する態度が求められるし、研究領域の特殊性から、特に意識的な政権との距離の取り方を確保することに努めようとしなければならない。そうした態度が見られない者は、「御用学者」と批判されても、おそらく弁明には何ら合理性がないということになろう。

 

かつてケインズの弟子の女性経済学者ジョーン・ロビンソンは、「経済学を学ぶ理由は、経済学者に騙されないためだ」と諧謔を込めた警句を残したが、「国際政治学を学ぶ理由は、国際政治学者に騙されないためだ」という文句を、特にメディアに露出する政治学者、政府の審議会等各種委員会に召喚され喜び勇んで馳せ参じる政治学者、政権の誘いで会食に招かれて嬉々として呼ばれた政治学者、彼ら彼女らの全てが「御用学者」であるとは断言できなくとも、その可能性が大いにあるということを肝に銘じながら、メディアに登場する姿を用心して拝見しなければならないだろう。

春季例大祭をむかえて

 今年はキリスト教東方教会を除く教派のイースターは21日なので、ところによると数日前からイースター休暇に入った国もあるが、我が国では21日から3日間、靖國神社の春季例大祭が挙行されている。安倍晋三内閣総理大臣は今年も昇殿参拝を控え真榊を奉納するにとどめたようである。6月には大阪でG20サミットが開催される予定だし、年内の習近平中華人民共和国国家主席国賓として迎えたいと考えていることから、外交的配慮の結果だとも報道されている。本来ならば、内閣総理大臣として春季秋季の例大祭及び終戦記念日に堂々と本殿に昇殿参拝するのが筋だと思われるが、自身の政権の延命を最重視する安倍晋三のことだから、参拝を望んでも仕方がない。安倍晋三政権は左翼革命政権であると思う僕からすれば、寧ろ逆に国体破壊の方向に事を進めて独善的行為に突っ走りかねないとの危惧を抱かないわけにはいかない。靖國神社に関する最大の問題は、早く陛下の御親拝を賜る環境を整備することであり、また御英霊にとって大切なことであろうと想像する。皇室に対する尊崇の念に欠ける安倍晋三に期待する自称「保守」の人間は、新元号をめぐる安倍内閣の不敬な振る舞いをみてもまだ目を覚まさないのだろうか。

 

 それはともかく、平成の御代が終わり新帝が即位される時期に毎年何度も靖國神社周辺に遺族の感情を逆撫でしに出てくる反天皇制運動連絡会(反天連)なる国賊集団が不敬行為を働くことが予想されているので、この連中の好き勝手を許してはならない。警備当局に厳重にガードされながらしかデモができないにもかかわらず警備当局を悪し様に罵る醜態は卑怯な弱虫そのものである。警察も嫌々警備しているのだろうが、人員を割くのは無駄であり警備対象の必要性すらない連中なのであるから、即刻警備を解いていただきたい。警備をしているからあのような連中が生き残っていられるわけであって、もし警備がなければとうの昔に消えている者たちだ。皇室伝統に否定的な意見を持つ自由は認められるにしても、また少なくとも国家統治の中に制度的に取り込むことに異論を持つ自由が認められるにしても、あのように皇室に対する破廉恥なまでの冒涜・侮辱行為までしてよい自由などない。反天連の常軌を逸した言動を知らない人は、連中が何をやっているのか調べてみるといい。残念ながら我が国の現行刑法には不敬罪の規定は存在しないが、反天連の行為は現行刑法の体系からしても明らかな皇室の個々人の名誉を棄損する度を越した行為に該当するので、内閣総理大臣は代わって刑法232条2項、同法230条に基づき告訴すべきである。ともかく、反天連のような存在を今まで野放しにしてきた歴代政権の罪は重い。放置するならせめて警備をやめて国民の前に連中を晒せばよいのである。国家そのものを否定する連中なのだから、事何が起きようとも、よもや助けてくださいと泣き言を弄することはあるまい。

 

 思い出す度に反吐がでる連中のことは忘れよう。「皇国史観」という言葉を耳にすると、特に左翼的でない人でさえも「先の大戦における軍国主義的政策に国民を駆り立てた天皇神権主義の悪しきイデオロギーである」という類の印象を持つのではないかと思われるほど、戦後の日本ではこの「皇国史観」という言葉が喚起するイメージは、ほとんど「悪」と等価であるかのようのである。あろうことか、この「皇国史観」を本居宣長国学に結び付けて考える者がいる。宣長は盛んにこのような「物知り人」を揶揄・糾弾したが、結論から言えば、いわゆる「皇国史観」と本居宣長国学とはほとんど無関係である。そもそも宣長が「史観」などというものを称揚するだろうかと考えてみれば、国学の書を読んだ者なら明らかに奇妙な感覚を覚えることだろう。

 

 いわゆる「皇国史観」という言葉が全面的に政治の場に躍り出てきたのは、昭和12年支那事変辺りであると言われる。もちろん、その元になる考えを遡及すれば南北朝時代北畠親房による『神皇正統記』に起源を求めることができるだろう。この書は周知の通り、南朝方の正統なることを証明するために書かれた政治道徳ないし政治哲学の書であり、「大日本ハ神国也」という宣言から始まるこの書の含意するところを読み解こうとして現在も数多の知識人が関心を持ち続けている。蓮實重彦山内昌之『20世紀との訣別-歴史を読む』(岩波書店)において、山内はこの『神皇正統記』のことを「おそるべき政治哲学の書」と評価していた。「皇国史観」の「親玉」的歴史家で戦後は東京帝国大学教授の職を辞し白山神社宮司に就きながら、政界にも隠然たる力を有していたと言われる平泉澄もことのほか『神皇正統記』を愛し、いくつもの論考を残している。しかし、『神皇正統記』が「皇国史観」の起源に位置づけられるとしても、その内容を充実させる役割を果たしたのは、南北朝の時代から数百年下った江戸後期の水戸学である。小林秀雄安岡章太郎との対談で水戸学の歴史観唯物史観よりも高く評価していたわけだが、いずれにせよ『神皇正統記』は確かに政治道徳の書ではあるのだが、法治主義に対する徳治主義の優越性を主として強調する書であるに過ぎず、直接的に後の「皇国史観」につながる思想が見られるわけではない。

 

 我が国は神武天皇による建国の御創業より一貫して皇祖天照大神の天壌無窮の御神勅を奉じ、三種の神器を継受してきた万世一系天皇が代々統治されてきたわけだが、この三種の神器つまり剣・鏡・勾玉について親房は「剣ハ剛利決断ヲ徳トス。知恵ノ本源ナリ」として剣を「知恵ノ本源」と位置づけており、その他の鏡については「正直ノ本源」、勾玉については「慈悲ノ本源」と述べている。対して、後の水戸学は儒学の系統にあって、同時代の本居宣長らの国学とは直接のつながりはない。明治維新を牽引する思想は、本居宣長国学ではなく水戸学であることを既に小林秀雄は見抜いており、そのことについて先の安岡章太郎との対談で述べてもいた。水戸学を代表する学者である藤田東湖弘道館記述義』は、確かに『古事記』や『日本書紀』の記載に基づいてはいることは間違いないが、それを国学者のようには解さずそこから政治道徳ないし政治哲学を抽出するある意味正反対の行為に出るのである。

 

 対して本居宣長は、おそらくこのような政治道徳とは無縁だった。宣長は人間の素直な情趣や欲望を肯定し、それを理屈で抑えつけようとする試みを漢意として退けんとしたアンチ・モラリズムの徒なのである。宣長ニーチェに準えて理解する者もいるが、当たらずとも遠からずといったところであろう。藤田東湖は「聖子神孫克く其の明徳を紹ぎ」と述べ、この「明徳」とは「蒼生安寧」のうちに存することを明確にする。日本国は「宝祚無窮」・「国体尊厳」・「蛮夷戎狄率服」・「蒼生安寧」の4つを特色とする国柄だというのである。曰く、「蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服す」と。すなわち、万世一系の皇統が永遠であることは、日本国の政治が元来「蒼生安寧」を旨とし、それをこそ目的として進んできたことに実現され、それゆえわが国体は尊厳を保つことができ、諸外国も尊敬に値するわが日本国に従うことが可能となるというのである。ここには、無理矢理にでも武力で以って諸外国を制圧し服従させようという思想はない。決して侵略を正当化する思想として大東亜戦争時の国民を駆り立てたイデオロギーというわけではない。大東亜戦争の開戦詔書にもこうある。

 

列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル恂ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ。

 

何も好き好んで米英に宣戦を布告したわけでもないし、この部分の「皇国史観」の要素については、ひとえに「アジア侵略の合理化」であるかに喧伝する左翼がいまだに絶えないわけだが、寧ろ悲痛感さえ聞こえてくる開戦詔書であるという面を見ようともしない。戦後、GHQ総司ダグラス・マッカーサートルーマン大統領と朝鮮動乱をめぐる意見で対立した廉で解任された後の昭和26(1951)年5月3日に行われた米国の連邦議会上院の軍事外交合同委員会の席において、今では有名となっている証言を残した。質疑の最後はこう締め括られている。

 There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in the Asian basin. They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.

 

上記の通り、日本には蚕を除いては国産の資源は実質的にほとんど存在しなかった。日本には、綿も羊毛も石油製品もスズもゴムもその他多くの資源もない。それらすべての物はアジア海域に存在していたわけである。They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.とあるように、これら必需品の供給が断たれた場合には、日本では1000万人から1200万人の失業者が生まれるだろうとの恐怖にかられてもいた。そしてマッカーサーは、Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.の文言の通り、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったとの結論を述べたのである。

 

 もちろん、戦前の日本の行動が全て正しかったと開き直るのもまた暴論であるし、中には侵略的な行動によって理不尽な被害をもたらした悲劇を見たことも確かにある。日露戦争以後の日本人の驕りと傲慢の姿勢が時として他民族に対する蔑視感情を醸成しもした。当時の列強諸国と歩調を合わせてシナ大陸での権益確保のために、当時の中華民国に対する居丈高な21ヶ条要求を突きつけたことも、中華民国側からすれば覇権的な態度と映ったことは間違いないし、それに反発する動きが出てきたことも十分に理解できる。また支那事変の最中、僅かにではあるが一分の可能性が残されていた講話の道を早々に断念して泥沼に陥る事態を招いたことは総じて国策の誤りであった。しかし、当時の状況でフリーハンドはあり得なかったわけであるから、あの状況で日本が国家としてどういう可能性が残されていて、その可能性がどういう形で肯定され否定されていったのかの具体的事情を無視してひたすら現在の視点から糾弾することは、歴史を直視するどころか歴史を歪めてしまう元になろう。

 

 ましてや特定のイデオロギーから自身の都合の良いように歴史的出来事の一側面を殊更に誇張し、最悪のケースでは無いことをあったかのように捏造する、あるいはあったことを意図的に無視するなどして「歴史」を自身の政治的要求実現の武器にしてしまう行為は、それこそ歴史を正視しない態度に代わりない。どういう事情で国策を誤る事態に至ったかということの理解に基づいた適切な反省があって然るべきところ、戦後の日本は極端に針がぶれてしまって、徒に過去の全てを情緒的に否定し、時には左翼イデオロギーに都合よく利用しようとする悪意に満ちた日本批判が起こり、こうした認識が左翼的なイデオロギーに基づいて自分たちの見解を正当化する動きに拍車をかけてきた。つまり「歴史」は、左翼のイデオロギーに都合よくこしらえられた道具に成り果てたのである。最近はイデオロギーの色眼鏡を外した近現代史の研究も進みつつあり、単純な「日本悪玉史観」は成り立たなくなってきているが、そうした史観で教育を受けてきた世代やそうした史観によって業績を積み上げるなどしてきた層にとっては、今更真相が明らかになったとしてもやり直すことができないと思い込んでいるのか、何とかして暗黒の構図を描かないわけにはいかないと躍起になる。そして、それに異議を申し立てる者に対してことあるごとに「歴修正主義者者」とか「リビジョニスト」とかといった罵倒を繰り返すわけである。

 

 いわゆる「南京事件」について、右翼である僕からしても一人の犠牲者も出なかった全く架空の出来事であるとする「まぼろし派」の主張は冷静に見て肯定することはできないと考えるし、「ホロコースト」の悲劇がなかったなどという暴論にくみしようとは思わない。そういう主張する者に対して「歴史修正主義者」と表現するのは確かに誤りではないだろうとは思う。ところが「南京事件」では、確かに多くの犠牲者がでたであろうと推測できても(無辜の市民なのか便衣兵なのかは定かではないが)、中華人民共和国が対外プロパガンダとして戦後数十年経ってから持ち出した30万人やら40万人やらの犠牲者数という見解に対して史料に基づいて疑義を呈する研究者にしても、先ずはイデオロギー上の理由から「歴史修正主義」のレッテルを貼ることは、結局歴史を自身のイデオロギーに都合よくプロパガンダとして利用していることを暴露しもする。ド素人ながら僕としては「中間派」である。数百人から数万人と幅がありうるが、いずれにせよ当時の陸軍中央が動揺したほどの何らかの不測の事態が発生したのだろうとは思っている。

 

 いわゆる「従軍慰安婦」問題にしてもそうである。日本の官憲が強制的に動員したという史料的な裏付けは今のところないのに、特定党派の研究者を除き、まともな歴史学者は「右翼」のレッテルを貼られることを恐れて何も言わなくなっている。「慰安婦」という存在は多くの軍隊にもいたし、米軍は日本占領中にもかかわらず米軍兵士用の売春施設を日本に設置させていた。少なくとも旧日本軍は原則として現地の人から募集するのではなく日本から連れていった。インドネシアで例外的な事態が発生したが、発覚した時点で責任者は死刑、その慰安所も閉鎖の処分がなされた。朝鮮人慰安婦ばかりが問題になっているが、実際は日本内地から募集された日本人慰安婦の方が多かった。米軍が北ビルマ慰安所にいた朝鮮人慰安婦朝鮮人の業者に尋問した記録が残っているが、この記録からすると、たいていは慰安婦の仕事が軽労働の上に高給であることにつられて応募したという。家の借金返済のためや、悲しいことに親が女衒に売り飛ばしてやってきたという気の毒な者もいれば、自ら高給を求めてやってきた者ばかりである。休みもあれば、嫌な客を断ることもできたし、ピクニックや買い物なども楽しんだと。給料は高級軍人の給料かそれ以上の金額が支給されていて、その郵便貯金記録も残されている。中には結婚にまで至った者もいた。

 

 こういった実態が明らかになっているとはいえ、だからといって我々は正しいことをしてきたと胸を張るつもりはないし、居丈高になることはよした方がいいだろう。戦時下の女性のおかれた環境という点で考えれば、旧日本軍だけが特別に悪かったというわけではないが、やはり中にはつらい思いをした女性もいたに違いない。再びこのような事態を招かぬようにしなければならとも思う。しかし、何らかの政治的意図を背景にして事態を誇張しておどろおどろしい物語に仕立てそれを外交的恫喝のカードにしたり、また国内の政権批判の口実に歴史問題を持ち出す左翼のやり口には、逆に歴史を直視しない不誠実な態度というべきだろう。歴史を脅迫の道具に使う政治・外交とは決別せねばならない。

柄谷行人について

哲学者ジョン・ロックは次のような文章を残している。

奇妙で馬鹿げた学説を流行させたり主張したりするには、曖昧でわかりにくく、意味のはっきりしない言葉をふんだんに用いて周りを固めるに若くはない。しかしながら、そうして出来上がる巣窟は、正々堂々とした戦士の要塞というよりも、山賊の住む洞窟か狐の住処にそっくりになってしまう。そこに逃げ込んだ者を追い出すのが難しいのは、その場所が持っている強さのためではなく、周りを囲む茨や棘、薮の暗がりのせいである。というのも、誤謬は元々人間の知性と相容れないので、不条理なものを擁護しうるのは、曖昧さしかないのである。

 

 

この文章においてロックの言わんとするところは、僕が何度も読んできたテクストだけに頻繁に引用する我が伊藤仁斎童子問』も述べているところである。期せずして、ロックも仁斎も同様な言葉を残していたのだ。

 

大抵詞直く理明らかに知り易く記し易き者は必ず正理なり。詞艱に理遠く知り難く記し難き者は必ず邪説なり。・・・卑きときは則ち自から実なり。高きときは則ち必ず虚なり。故に学問は卑近を厭うこと無し。卑近を忽にする者は道を識る者に非ず。故に知る凡そ事皆當に諸れを近き求むべくして遠きに求むべからず。遠きに求むるときは則ち中らず。学者必ず自ら其の道の卑近を恥じて敢えて高論奇行を為して以て世に高ぶる。・・・儒者の学は最も闇昧を忌む。須く是れ明白端的、白日に十字街頭に在つて事を作すが若くにして一毫も人を瞞き得ずして方に可なるべし。

 

 

時に蒙を啓かせる文章を書きもすれば、時にハチャメチャな文章も書くためだろうか、いずれにせよ毀誉褒貶の激しい柄谷行人であるが、元はと言えば文芸批評家として世に出た。ところが、柄谷は久しく文芸批評をものしてはおらず、したがって最近の仕事は、「文芸批評家」というより「批評家」もしくは「理論家」と形容した方が実態に相即しているのかも知れない。

 

その柄谷の仕事を通覧すると色々な分け方があろうが、概ね四つか五つの時期に分けられるのではないか。

 

東京大学在学時に書いた批評を除くとしても、「<意識>と<自然>-漱石試論」や「マクベス論-悲劇を病む人間」その他の漱石論を残した第一期。

1973年から雑誌『群像』で連載が開始された『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫)や『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)に代表される第二期。

『隠喩としての建築』(講談社学術文庫)や『内省と遡行』(講談社学術文庫)や『探究Ⅰ』『探究Ⅱ』(講談社学術文庫)に代表される第三期。

トランスクリティーク-カントとマルクス』(岩波現代文庫)から『近代文学の終わり』(インスクリプト)までの第四期。

そして『世界史の構造』(岩波現代文庫)から現在に至る第五期。細かく見れば、『探究Ⅰ』と『探究Ⅱ』の間には断絶があるように思えるが、ここではとりあえず無視しよう。

 

第一期の柄谷の仕事は遥か後の世代にあたる僕が読んでも面白い批評で、さすが江藤淳福田恆存の影響下で書いたものだけあって、彼らの若い時分に書いた文章に伍しているといっても言い過ぎではない出来栄え。特に「マクベス論」は、通常権力への妄執に捉われている存在として解釈されがちなマクベス像と真逆の描像を提示し、むしろマクベスは権力への妄執とは異質な茫漠とした憂鬱を抱え込んだ男と論じていく様は、上質な推理小説を読んでいる気持にさせられたりもした。ある意味、ポストモダン的雰囲気を醸し出している批評とも言える。

 

この時期の柄谷は比較的吉本隆明に好意的な態度だったのではないか(あの時期に吉本隆明が持ち上げられたのか理解に苦しむのだが、そんな僕のような感想は既に浅田彰が持っていたようで、浅田は吉本隆明のテクストに対して「読解不可能」と辛辣だ。僕はかつて吉本隆明を「堕ちた偶像」と書いたことがある)。

 

この吉本への態度が一転する頃に1回目の転回が起きる。第二期の『マルクスその可能性の中心』は、どこかで読んだ気もしないでもないのだけれど(だからといって、パクりだというつもりはない)、記号論が流行った時代以降の影響下で書かれたマルクスの新たな読み方を、マルクス研究の動向とは全く別の文脈で日本の読者に提示した意味は大きい。

 

ところが第三期になると、徐々に胡散臭い仕事が目立つようになる。しかも、浅田彰蓮實重彦もこの時期の柄谷を持て囃すものだから、調子に乗って「ええかっこしい」(熊野純彦の言)に増々拍車がかかっていった。蓮實重彦は「闘争の光景-柄谷行人『探究』を読む」という文章まで雑誌「群像」に寄稿してオベンチャラめいたことを書いていたくらいだ。

 

おそらく第三期が柄谷行人蓮實重彦の蜜月時代なのだろうか、両者の対談『闘争のエチカ』(河出文庫)もこの時期のものだ。また蓮實重彦夏目漱石論』(福武文庫)が出された直後の、雑誌「現代思想」での対談「マルクス漱石」は、絶頂期の二人の自信過剰振りが現れてもいた。ところが面白いことに、『闘争のエチカ』における両者のやり取りを改めて読み返してみると両者の主張はあまり噛み合っていたとは言い難く、銘々が別の方向の言葉を発しているにも関わらず互いに相槌を打っていただけのようにも思える。両者は、本来的に互いを相容れない存在だと密かに思い始めていたのではないか。

 

しかし、「名編集者」としての浅田彰の貢献が手伝って(思うに、浅田彰は学者には不向きではあるが、仮に出版社に入っていれば、おそらく大編集者になっていただろう逸材だ)、「論壇政治的」にとりあえずの「共同戦線」を張っておこうとの思惑から、あたかも互いが互いの理解者であるかのように振る舞っていたのではないかと邪推したくもなる。

 

この表向きの蜜月関係は、蓮實重彦が第26代東京大学総長に就任したことを契機に終わりを告げたようだ。こうした政治的理由で蓮實との関係を切った者として編集者の安原顕(自称「天才ヤスケン」)もいる。蓮實重彦夏目漱石論』(福武文庫)の解説にて蓮實を絶賛していた安原は、元々は中央公論社の雑誌「海」の編集長として蓮實と近しい関係にあったのだが、時期的には蓮實の東大総長就任以後、蓮實を口汚く罵倒する文章を残している。蓮實の東大総長就任という事件は、我が国の批評シーンに僅かなさざ波を起こすことになった。

 

柄谷行人江藤淳も、蓮實重彦東大総長の誕生がよほど癪に障ったらしく、特に江藤は文部大臣の椅子を狙っていたと噂される程だったという(江藤淳とも『オールドファッション-普通の会話』(中央公論社)では仲良く歓談する間柄だったのだが)。なるほど男の嫉妬ほど厄介なものはないというのも宜なるかな

 

蓮實重彦は「東大総長などなりたくはない」と公言していたらしいが、僕は蓮實が駒場教養学部長に就いた頃から総長への野心が具体的に芽生えたのではないかと勘繰っている。別に蓮實を貶す意図など微塵もないが、顧みるに、蓮實は表向きの発言とは異なり、東大への固執が強い人ではないかと思われてならないのである。蓮實重彦明治学院大学をはじめとする東大仏文科の「植民地」の一つに含まれる立教大学助教授に就任したにも関わらず、敢えて東京大学講師に降格する選択を行っている(こうした「植民地」開拓に貢献した先達の一人が渡辺一夫である)。

 

当時は、ひとたび専任講師に着任すれば余程のことがない限り、いずれは助教授から教授へと昇進するだろうことが期待されたわけで、実際に蓮實は講師を経て2年もしないうちに助教授に昇進する。立教大学助教授のままだと立教大学教授として終わっていく可能性が高い。それよりも、たとえ一時的に講師に格下げになってでも、将来的に東京大学教授に昇進する可能性の大きい道を選択したと言えよう。

 

ただ、蓮實が東京大学教授に着任するのは意外と遅く、50代になってからのことである。当時の東京大学の定年は60歳であったから(早めに退官して「植民地」の大学に天下りするか、後輩のための新たな「植民地」作りに精出すのが半ば慣例になっていたし、今もこうした不健全な体質は大して変わらないだろう)、東大教授としていられる年数は10年もなかった。

 

ところが、教授になってから間もなく教養学部長に就任する。この時期はちょうど駒場寮の廃寮問題で揉めており、反対派学生の弾圧に率先して取り組んだのが蓮實重彦一派であったとされる。また「駒場発」として売り出された『知の技法』(東京大学出版会)が左翼から問題視され、船曳建夫野矢茂樹が「団交」の場にて左翼学生や左翼活動家から「吊し上げられる」という出来事もあったという。そうしたこともあって、蓮實やその関係者の主として表象文化論に属する教員たちの権力体質が批判されたりもした。『闘争のエチカ』には駒場騒動のことが触れられているが、そこで蓮實は「階級闘争」なのだと、見ようによってはいけしゃあしゃあな言葉を吐いてもいた。

 

今もその名残があるのだが、東大の学内ヒエラルキーでは圧倒的に本郷が上で、駒場の教員を「教養学部奴隷」と秘かに蔑視する本郷の教員は意外に多かった(特に法学部では露骨にあった。聞くところ、蓮實が総長に就任した1997年でも駒場に対する露骨な嫌悪を示していた法学部の教授もいたらしい)。この学内ヒエラルキーとは逆に、とりわけ文科Ⅲ類から駒場の後期課程に進学することがちょっとした「ブランド」になっていた。

 

この現象は、簡単に説明可能である。有名進学校で東大の文系を志望する者は、東大では入学してから約1年半後に三年時に進学する専門課程にあたる学部学科選択を迫られるということもあって、たいてい文科Ⅰ類を目指すのが通常である。理科系の場合は理科Ⅰ類か理科Ⅲ類を目指す傾向にあり、理科Ⅱ類となるとちと落ちる。但し、理科Ⅲ類は原則として医学部医学科進学予定のコースなので、とりわけ医師を目指したい者でない限り、たとえ理科Ⅲ類に合格する力があろうと理科Ⅰ類を目指すわけだが(とはいえ、「偏差値エリート」の悲しい性なのか、医師を目指したいわけでもないのに単に受験難易度の高い理科Ⅲ類に合格したという「ステータス」を得るためだけに敢えて理科Ⅲ類を志望するという救い難い人種もまたかなりの数いるのが実態だ。そういうのが「鉄緑会」にはうようよいたそうである。そうは言っても灘高の連中に負けるのだけれど)、文科系の場合はとりあえず文科Ⅰ類を目指し、文Ⅰには届かない者が文科Ⅱ類や文科Ⅲ類を受験するという固定観念があるので、文科系で優秀とされる受験者は余程の変わり者でない限り、ほぼ間違いなく文科Ⅰ類を受験する。有名進学校になればなるほど文科系進学者における文科Ⅰ類志望者の数が圧倒的に多く、文科Ⅲ類志望者の数が極端に少ないことが物語っている。

 

合格基準点や合格者平均点ならびに合格者最高点のいずれにおいても文科Ⅰ類に劣る文科Ⅲ類からの入学者が、本郷の文学部や教育学部に進学するのではなく、ある種の見栄のために「点取り虫」らしく進学振分けにおいて文科Ⅲ類からでは高い成績が要求される駒場の後期課程を目指すという受験システムの延長が存在している。これは、受験時の「文Ⅰコンプレックス」が影響しているというのが僕の見立てである。

 

文科Ⅰ類の大半の者は、駒場の後期課程に進学せず本郷の法学部に進むという事実が如実に語っている。なぜか。これも単純で、「東大法学部」という「ブランド」価値の方が勝ると思い込んでいるからである。

 

東京大学を目指す者の多くは、愚かなことに、常に他者と比べて自分が優れているかを目に見えやすい物差しで計ることに拘り、他者から自分が優秀な存在であると見なされることに異常に執着する者たちだからである。中央省庁の官僚になるにしても、常に公務員試験の合格席次が決定的に重要な意味を持つのは、その席次が己の優秀さを示す物差しであると思いたい願望の反映であり、別言すれば、それしか誇れるものがないということだからである。有力官庁に入るには一定以上の合格席次が要求され、今はどうかは知らないが、国家公務員試験Ⅰ種(現在の国家公務員試験総合職)の合格証にわざわざ合格席次が明記されているのもその反映なのである。

 

そういう状況が長く続いたものだから、駒場の教員の対本郷意識は高く、駒場の大改革はそんな東大本郷の主流派からいくらかなりとも「ヘゲモニー」を奪い取ろうという目論見からなされたという見方も成り立つ。普段は「反体制」のポーズを決め込んでいる石田英敬小林康夫といった面々が駒場の「改革」と称して大学構内に警官隊を導入してまで廃寮反対派を力ずくで追い出したりもした。小森陽一にしても普段は極左的な言辞を弄しておきながら異論すら出さない様を、左翼側が批判する場面すらあったという。中には「総力戦体制と闘う」と言ってたらしい小林康夫に対して「お前が総力戦体制だろう!」という突っ込みすら入れられる始末。いずれも、表向きはリベラル風を吹かせ連中や「遅れてきた学生運動家」の如き落ちぶれ左翼の連中だ。

 

いずれにせよ、教養学部長就任後すぐに順調に副学長に就き、副学長は当然に次期総長の候補者になるという既定路線を作り上げ、本郷に対する駒場の対抗心をうまく利用して駒場票を固め、狙い通り総長の地位を得た。さすが「趣味は官僚」だけあって、学内政治で上手く立ち回った蓮實の手腕が発揮された結果だったと言えるだろう。

 

再度言うように、だからといって、蓮實重彦を糾弾しているわけではない。誰もが、程度の差こそあれ、権力欲や名誉欲を持っているのであって、蓮實もその例外ではないということである。特に、東大にはそういう人種が多い。かつて「東大解体」を叫んでいた連中の態度の裏には、「東大は格別の存在なのだ」という特権意識があったわけで、その意味では似たり寄ったりの存在なのだ。もちろん、事実は全く異なる。東京大学のネームバリューなど世界に出ればゼロに等しい。理科系の研究者で世界的に著名な教授がチラホラ存在するというだけのことである。

 

そうした振る舞いと権力欲を嫌悪したのかどうかわからないが、副学長時代には、まだ嫌味を言う程度の余裕を見せていた柄谷は、総長就任以後、蓮實の映画批評を間接的に否定するかのような言葉を述べ始める。例えば、小津安二郎の映画についても、批評家は御大層な芸術であるかのように色々な言葉で小難しく論じたりしているが、ごく普通の庶民が楽しんでいた大衆娯楽に過ぎないとして、あからさまに『監督小津安二郎』(ちくま学芸文庫)を意識した文句を残しているし、「フランス現代思想」に対する辛辣な批判を口に出し、更には、雑誌「批評空間」の共同討議「いま批評の場所はどこにあるか」において、阿部良雄蓮實重彦の影響を受けた松浦寿輝を「おフランス」だの「蓮實のエピゴーネン」だのと攻撃し始める。こうした一連の言動の批判の本丸は蓮實重彦であったことは見え見えだった。

 

さすがにまずいと思ったのか、浅田が火消しにまわる。確かに、松浦寿輝の『エッフェル塔試論』(ちくま学芸文庫)にしろ『表象と倒錯』(筑摩書房)にしろ、蓮實重彦の文体を真似たと思われる文章であるが、単なるエピゴーネンというのは公平な評価ではない。『折口信夫論』(太田出版)にしても、『表象のディスクール』に収録されている「国体論」にしても、相応に優れた論考だと思われるが、柄谷はそうした評価を下していない。

 

閑話休題。日本におけるポスト構造主義の隆盛に呼応するかのように(要するにミーハーだったわけだ)、1980年代から90年代にかけての柄谷行人数学基礎論トポロジーに関する一知半解な知識に基づき、トチ狂ったかのように「自己言及のパラドクス」やら「ゲーデル問題」やら「変換規則の同一性」やらといった言葉を振り回して読者を煙に巻く文章を量産し始めた。

 

この姿に露骨な嫌悪を公にしたのは、「ケンカ大岡」の異名をとる大岡昇平だった。大岡昇平は『成城だより』(講談社文芸文庫)においてこの時期の柄谷の文章を「数学的寝言」と称し、柄谷と数学について語るのは「ごめんこうむりたい」とまで辛辣に語る。「心の哲学」や言語哲学の研究で知られ、また論理学者ハオ・ワンによる長大なゲーデル伝である『ゲーデル再考-人と哲学』(産業図書)の翻訳者の一人でもある土屋俊も名指しこそしていないが、明らかにこの時期の柄谷行人の言説を意識してその種のインチキな議論を手厳しく批判する文章を残している。

 

80年代から90年代中頃にかけて柄谷自身の言うところの「形式化」に拘って「自己言及のパラドクス」だの「ゲーデル問題」だのと言って悦に浸っていたのは、一体何がきっかけだったのだろうか。フランスのコレージュ・ド・フランス教授でウィトゲンシュタイン研究で知られる哲学者ジャック・ブーブレスが『アナロジーの罠-フランス現代思想批判』(新書館)において、特にレギス・ドブレなどが社会や共同体の問題に対して何の前提もなくゲーデルの定理を濫用している点を指摘したわけだが、この批判が丸々この時期の柄谷行人にも当てはまるのである。

 

ゲーデルの定理は、所謂「自己言及のパラドクス」を論じる趣旨の定理ではない。また、人間の理性の限界や人間機械論への反駁を決定づけたものとして理解すべきものでもない。

 

人間の理性一般における限界を明らかにしたという受け取り方をした有名人は、物理学者で原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」の責任者でもあったロバート・オッペンハイマーである。頭脳明晰でかつ博覧強記で高名なオッペンハイマーともあろう知性がこのような受け取り方をしたのは故のないことではなく、当時は数学者ヒルベルトが抱いていた基本的な考え方が数学者・物理学者の想念を覆っていたからであろうと思われる。

 

その基本的な考え方とは、数学の真なる命題は、例えばホワイトヘッドラッセルによる『プリンキピア・マテマティカ』の体系といった、ある公理系で証明可能であること及び形式化された数学の無矛盾性が、素朴な組み合わせ論的な議論で出来るという考え方だった。しかし後世、こうしたオッペンハイマーのような受け取り方が伝播し、ゲーデルの定理についての誤解を生む温床ともなったことを指摘しておかねばならないだろう。

 

ゲーデルの完全性定理は1930年のPh.D論文「論理的関数計算の公理の完全性」によって証明されたわけだが、これはヒルベルトとアッケルマンが残した未解決問題に解答を与える形式で示され、一階述語計算は完全であることを疑問の余地なく証明してみせたものだった。それに対して、翌年に書かれた「プリンキピア・マテマティカおよび関連する諸体系の形式的に決定不可能な命題についてⅠ」において、第一不完全性定理を証明した。この論文でゲーデルは、『プリンピキア・マテマティカ』の形式的体系を考察して、もし体系がω-無矛盾であれば、すなわち、いかなるA(x)に対してもA(0),A(1),A(2),・・・の全てと¬∀xA(x)とがその体系内で証明可能でないならば、φと¬φのいずれもその体系では証明できないようなある算術的命題φが存在すること、および、もし体系が無矛盾ならば、その無矛盾性を表明していてしかもその体系内では証明できないある算術的命題が存在することを証明した。

 

体系の無矛盾性を表明する算術的命題をどう見出すかについてゲーデルが採った考え方を知るためには、メタ数学の算術化について確認しなければならないだろう。メタ数学の算術化は、基本的な記号を自然数で表現する。そうすると、論理式と証明が自然数列と自然数列の系列により表現される。有限の自然数列をすべて枚挙することができるので、論理式と証明をそれらの「ゲーデル数」と呼ばれる自然数を使用して異なる論理式や証明を異なる数に対応するように表現することができるようになる。「ゲーデル数」という概念の画期的なアイディアである。

 

「xは論理式である」、「xは証明である」、「xは証明可能な論理式である」といったメタ数学上の性質は、対応関係におけるゲーデル数xについての算術的な式によって表現できる結果として、その体系の無矛盾性を表明する算術的な命題が存在することになるはずだというものである。

 

このアイディアとカントルの対角線論法とを併用することで不完全性定理を証明したわけであるが、ここに見られるゲーデルの「形式的体系」とは、二つの意味で用いられていることがわかる。一つは形式的体系を意味のない記号列に関する規則として、もう一つは形式的体系内部でメタ数学を遂行するのにその数学的意味が用いられたというものである。

 

ゲーデルのもたらした結果は、どのような数学的命題をとってもその命題またはその否定がその体系内で証明可能であるように数学を形式化する公理論的理論が存在するとの信念が誤りであることを証明したということであって、数学に対する無矛盾性のある種の有限的な証明を見出す可能性を否定するものでは決してないということである。結局、ゲーデルの定理は、初等整数論が整合的であるならばその肯定も否定も定理では証明できない式が存在することを主張するものであって、ゲーデルの定理そのものは真であり、自己言及性に絡むものであっても決して一般的な「自己言及のパラドクス」なるものを抱懐した定理というわけではないのである。

 

「論理体系は必ず不完全であり、いかなる論理体系であろうとも全ての真なる命題を証明できない」などということすら意味しない。不完全性定理とは、極めて特殊な高階述語論理で体系づけられる数学の命題を表せる非常に強い論理体系においては証明不可能な命題を見つけ出すことができるという定理なのであるから、self-referenceの一般的不可能性を意味するわけでも何でもないのである。

 

ゲーデルの定理に関する柄谷行人の完全な誤解に基づいたこの時期の思考を下敷きにして「ゲーデル脱構築」が云々と言っていた東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』(新潮社)は、議論の初めから疑似問題と格闘していた茶番というべきかもしれないのだ。

 

ゲーデルの定理自体から離れて、では「自己言及性」が主題化されないで済むのかと言われれば必ずしもそうとも言えない。我々が物理的宇宙を考察する場合、数学的表現に置換して記述を行うわけだから、その記述の表現である数学自身を考察するメタ数学や集合論の考察を避けて通ることはできないからである。1903年ラッセルのパラドクスの発見は、数学の基礎を見直す契機となったが、その際にヒルベルト形式主義やブラウアーの直観主義などの立場が提唱されたことは、基礎論関係の書物を繙けば必ず書かれている。

 

ゲーデルの定理は、このヒルベルト形式主義のテーゼである無矛盾性と完全性を理論の健全性の証とする立場を否定する結果となったが、このことは、数学そのものが矛盾を内包した体系であることを含意しない。メタレベルにおいても集合論が成立すると仮定した上で、当の集合論的論理を対象レベルの理論である形式的な集合論に適用しようとすれば、矛盾が生じるというに過ぎない。

 

しかし、メタレベルにおいては有限な操作しか認めず、対象理論の側で無限を扱うということにすれば、矛盾の発生は回避される。但し、そうすれば、対象となる理論の無矛盾性自体が有限な立場では決定不能となる。逆に、対象理論が無矛盾だと仮定すれば、不完全になってしまう。

 

メタレベルでも対象レベルでも有限な立場に限定すれば、無矛盾でかつ完全になる。集合論において無限公理を仮定したり、自然数論において数学的帰納法を仮定するとかしなければ済む話に収まることになる。

 

いずれにせよ、完全に形式化された抽象体系を言語体系や思想体系あるいは社会システムの問題にパラフレーズして論じることには無理があるし、そのような仕事は一人の批評家の手に負えるような仕事ではない(というよりも、そんなことして意味があるのかすら不明だ)。その意味で、この時期の柄谷行人の企ては総じて無謀というか、もっと悪く言えば勘違いからくる空騒ぎだったというこである。

 

それゆえ、この時期の『批評空間』の「共同討議」での柄谷の発言を見ると、いかに陳腐で滑稽な発言をしていたかがわかろう。数理論理学や科学哲学に疎い素人連中に囲まれて悦に浸っていただけというのが実際のところなのである。多少勉強したら、素人ですらそのインチキがわかるほどの乏しい理数系の知識しかないくせに、なぜだかファッショナブル・ナンセンスに「熱病」の如くに魘されていたのは、実のところ柄谷行人のみではなかった。

 

プラザ合意後の円高不況を改善すべく極端な内需拡大政策を行った結果として余剰資金が株式や不動産に集中したために発生したバブル経済に突入した日本社会の浮ついた消費社会の雰囲気に合わせるように、ニュー・アカデミズムという名の非アカデミックな舞文曲筆が「知」の意匠を纏って読者を誑かすといった現象は他にも見られたのである。

 

中沢新一東京大学教養学部助教授任用をめぐる「東大駒場騒動」は、その『雪片曲線論』(中公文庫)などで書かれているコッホ曲線やマンデルブロ集合などの数学の知識が杜撰極まることを指摘する声もあって騒動となり、また折からの東大駒場内部の教授陣らの学内政治的対立もあって、結局中沢新一の東大助教授就任はお流れになり、中沢を推薦した西部邁は東大教授を辞し、中沢は著名な刑事訴訟法学者であった渥美東洋が仕切る中央大学総合政策学部に職を得ることになったわけだが、この騒動も同じ文脈に位置づけて理解することができるだろう。

 

こうした時代の「熱病」から覚め、ファッショナブル・ナンセンスの路線からまともな道に軌道修正するきっかけとなった著作が、『トランスクリティーク-カントとマルクス』である。この点、誰も指摘しないのだが、この書が岩波書店から再刊されたという点に着目すべきではないかと思われる。その後の柄谷は岩波書店との関係を密にしていき、主要著作を岩波から出版するようになる。これまで柄谷は岩波系とは無縁だったはずだ。岩波系知識人の一人だった中村雄二郎を中心とする「へるめす」グループに対しても批判的であった。このことを指摘する声が少ないのは驚きだ。

 

後期ウィトゲンシュタイン問題としての「教えるー学ぶ」関係の背後にマルクスの「売るー買う」関係を重ねて読み込む『探究』から離陸して、カントの読解を通してマルクスを読み直し資本主義の超越論的批判へと赴く作業が、この『トランスクリティーク』のモチーフである。カントの超越論的な「垂直的」なものすなわちトランスセンデンタールなものと、マルクスの「交通」の横断性といった「水平的」なものすなわちトランスヴァーサルなものを重ねるパララックス・ビューな試み。

 

そこで問われていたことの一つは、フーコーが近代的主体の特質として提示した「経験的主体と超越論的主体との二重体」の問題でもある。柄谷が言わんとしたことは、こうした経験的なものと超越論的なもの、すなわちオブジェクト・レヴェルとメタ・レヴェルの垂直的関係は横断的なトランスヴァーサルな関係あってこそなのだということであって、読み方如何ではドゥルーズのカント批判とも重なる面が見られる。

 

柄谷は、そこに宇野弘蔵の原理論に見られるようなヘーゲル的循環の論理には還元されない歴史における偶然的所与性を発見することこそがマルクス唯物論の要諦であることを示唆しているとも読める。これはこれで一つの卓見であって、後に熊野純彦が『マルクス資本論の思考』(せりか書房)でも指摘してたことでもある。

 

その後柄谷は、その豊富なマルクス読解の経験を総括するかのように『世界史の構造』(岩波書店)を世に問う。柳田国男論と併せてこの時期の柄谷行人の代表作だ。現在に連なるこの仕事の意味がはっきりしてくるのは、もうしばらくしてからだろう。

 

「文学においては新古今を頂点とし、政治においては尊皇派、宗教においては神道」という立場の僕は、終局的には柄谷とは相容れない立場になろうが、最近の柄谷は読んでいて為になるので、無視を決め込むことはできそうもない。『世界史の構造』は半分ほど流し読みしただけで後は放りっぱなしなので、きちんと腰を下ろして再読しなければならないと思っている。

刑事訴訟法321条1項2号の改訂を

 渡部昇一『萬犬虚に吠える』(小学館文庫)に収録されているロッキード裁判批判と立花隆ロッキード裁判批判を斬る』全三巻(朝日文庫)を通じて互いに罵り合っていた渡部・立花論争は雑誌『朝日ジャーナル』での紙上論戦が元になっているが、論争という論争を見ることのなくなった現代に生きる者からすると、水準云々は別として、まだこの時代には論壇というものが機能していたのだなという思いに駆られる。

 

 渡部のロッキード裁判批判は反対尋問権の侵害ばかりを言い募る内容に終始し、まるで刑事訴訟法上の伝聞例外規定の存在に不案内であるかのような書きぶりで、批判のポイントがずれていたし、さりとて立花隆の立論も我が国刑訴法に明文規定を欠く事実上の刑事免責を付与した上での嘱託証人尋問調書の証拠能力がなぜ認められるのかという肝心な面をぼかし、専ら検察側の理屈を押し通すばかりで説得力を欠くものだった。

 

 それにしても解せないのは、なぜ渡部昇一ロッキード裁判だけに拘ったかということである。普段から、我が国の刑事司法制度の問題点を告発する人物ならば、この裁判批判も理解できよう。例えば、日本共産党系の自由法曹団の弁護士である石島泰だとか新左翼系団体の犯罪を弁護したりもした九州大学名誉教授ね井上正治だとかが、日本の刑事司法制度の問題点をアピールする目的でロッキード裁判批判の隊列に参加するのは理解できるのだが、渡部昇一が殊更に刑事被告人の権利について問題意識を持っているとは思えなかったので、このことが今も謎になっている。

 

 渡部昇一だけでなく、その周辺の人物である小堀桂一郎小室直樹も隊列に加わっていたのだから、ますますキナ臭い感じを抱くのは僕だけではあるまい。立花の著作にも触れられていたエピソードに、小室直樹の「検事をぶっ殺しでやりたい」というテレビでの発言がある。ロッキード裁判の最中、折からテレビのワイドショーに生出演していた小室直樹が椅子から立ち上がり拳を振り上げて「検事をぶっ殺せ!」と絶叫したそうである。翌日に、先の発言の弁明をすると再び出演した小室は、「政治家に道徳を要求するのは間違いだ。政治家は人を殺したってよい。黒田清隆は奥さんをぶっ殺したって何もなかったではないか。田中角栄は他に代わる者がいない有能な政治家である。対して検事なんか1ダース2ダース殺したって代えはいくらでもある。だから、検事を殺したって構わないのである」と弁明になるどころか、今なら大炎上間違いなしの火に油を注ぐかのような発言をしていたらしい。

 

 さらに加えて「今時、そこらのおちゃーぴーでも一億や二億くらいすぐちょろまかす。ちょっとマシなおばはんともなると10億くらい掠めとる。角栄の五億がなんだ!そんなことで騒ぐような検事は殺したって構わないんだ」などと述べていた。以後しばらく小室はマスコミから干されることになったようだ。無茶苦茶な主張だが、こういうイカれた発言は嫌いではないし、暴力肯定論者なんで批判する気はないが、『田中角栄の大反撃』(カッパノベルズ)を読んでもロッキード裁判批判の論理には説得力は皆無だ。

 

 田中角栄死後の最高裁決定(被告人の死亡により結局公訴棄却になったが)において、この刑事免責を付与した上で得た嘱託証人尋問調書の証拠能力について、最高裁は証拠能力を否定する判断を下したわけだが、このことは田中角栄は無罪だとする渡部昇一の主張が正しかったことを意味するわけではない。渡部昇一は、最高裁決定の後、あたかも自説が正しかったかのように主張していたが、完全に勘違いである。というか、裁判批判を展開していた割には判決文全てを読んでいるとは思えない主張をしており、この点につき立花隆から突っ込まれていた(特に、一審判決の判決文は物凄い分量なので、一々読むのは大変だろうけど)。

 

 渡部の批判の趣旨は、反対尋問が認められないのは暗黒裁判だということの一点張りだった。伝聞証拠であっても、後に触れるように、伝聞例外の規定に当てはまれば、たとえ反対尋問がなされなくとも真実性が担保できる限りは許容されており、ロッキード裁判以前から無数の事例が存在している。渡部の主張を文字通り解するならば、渡部は伝聞例外規定全てが違憲であるということになってしまう。

 

 もっとも、立花隆の立論にも問題があって、コーチャンやクラッターに対して不起訴宣明書を出して事実上の刑事免責を付与した上で得られた嘱託証人尋問調書の証拠能力は、先述の最高裁決定でも判示されている通り、我が国の刑事訴訟法には刑事免責制度を規定する明文を欠くので、これを認めることは反対尋問権を保障した憲法37条2項の趣旨を大きく逸脱する。伝聞証拠であっても刑訴法321条以下の伝聞例外規定に該当すれば反対尋問がなされなくとも証拠能力が認められることもあるわけだが、厳格な要件を満たす限りで認められるはずの伝聞例外を明文規定なき刑事免責を事実上付与する形で得られた証人尋問調書にまで拡張適用するようなことは許されるはずはない。

 

 この点につき、刑事免責の付与には該当しないという反論があるが、我が国の刑事訴訟法は起訴するかしないかは検察官の判断に委ねられているので、わざわざ不起訴宣明書まで出して得たことは実質的な刑事免責の付与と解釈するのが妥当だろう(この点で、井上正仁の論文「刑事免責と嘱託証人尋問調書の証拠能力」が参考になる。なお、井上正仁『刑事訴訟における証拠排除』(弘文堂)は名著。僕が「この人はオツムがきれるなあ」と思った数少ない法学者の一人。僕が尊敬する団藤重光の最後の弟子だ)。しかし、我が国の刑事法においてより本質的な問題はそこではない。

 

 刑事訴訟法320条1項に規定される伝聞法則とは、公判期日外での供述や公判期日での供述に代わる書面で、要証事実との関係において、当該原供述の内容たる事実の認定に供される証拠の証拠能力を原則として排除すること意味する。このことは法学部で学んだ者なら誰でも知っている常識的な知識である。

 

 伝聞法則の意義をさらっと確認した上で、伝聞例外に触れて与件となる事案において326条の要件を満たさない場合、321条以下の規定に適合するか否かについて検討を加えて答案を作成していくという典型的な答案作法は、証拠法関連の試験を受けた者なら大抵は心得ているところであろう。知覚・記憶・表現・叙述の諸過程をたどる供述証拠には、その過程に誤りが入り込む類型的危険性があるので、反対尋問によるテストにかけられることでその原供述内容にある事実が真実であるか否かの判断ができるわけだが、伝聞証拠には反対尋問によるテストが介されないために真実性の担保がないという理由による。

 

 そうすると逆に、たとえ反対尋問によるテストがなされなくとも、必要性とそれに代わりうる信用性の情況的保障があれば伝聞証拠に絡む類型的危険性を緩和することができるのだから、326条の規定にある同意書面として認められない限りは、321条以下の要件を課すことにより例外的にその証拠能力を認めることができるし、逆に真実性の担保ある証拠まで採用されないとすれば、今度は刑訴法1条にある実体的真実主義の要請に応えることができなくなる。すなわち伝聞例外の趣旨は、被告人の人権保障に配慮しつつ実体的真実を明らかにするという要請を満たすことにある。そういう理屈で伝聞例外が認められてきた。

 

 ところが、321条以下の伝聞例外規定の問題点はいろいろあって、例えば被告人の供述を内容とする書面について規定する322条の運用に関しても実際の裁判では、被告人の公判廷での供述と捜査機関による供述録取書の内容に食い違いが見られるとき、実質的に被告人に不利に扱われている事例が多い。司法警察職員や検察官の精神的な圧迫により無理やり司法警察職員や検察官の作文した供述録取書に署名押印させられたことが原因で無実の者が罪を負わされる冤罪事件は、知られているだけでも数多くある。そうした冤罪事件ではたいてい、裁判所が被告人の公判廷での供述を信用せず、無理やり署名押印させられた供述録取書の方を無批判に信用したから有罪認定に至ったというケースだ。

 

 もちろん、322条を削除するというわけにはいかない事情もあろうから、この点は裁判官の公正な事実認定判断に期待するより他ないが、一番の問題点は321条1項2号にある。いわゆる検察官面前調書の証拠能力に関する規定である。同項2号は参考人等被告人以外の者が検察官の面前で供述した供述書ないし供述録取書の取扱いに関する規定であるが、注目すべきは、ここで課される要件が同項3号と比べて著しく緩和されていることの問題性である。供述の相反性と特信性を充足するか、あるいは供述が不能である場合に検面調書の証拠能力が認められるわけである。

 

 対して同項3号は、被告人以外の者の司法警察職員に対する供述書ないし供述録取書などを含む書面(要するに1号にも2号に該当しない書面)が認められる要件として、供述不能であること及びそれを証拠として採用することの必要不可欠性ならびに特信性を充足することを課している。これらを対比すると、いかに2号の要件が激甘な要件であるかが理解されるだろう。

 

 しかも、2号と3号の特信性の内容は、前者がいわゆる相対的特信情況で足りると解されているのに対し、後者は絶対的特信情況が認められることをも要求する点で、文言規定上のみならず解釈上においても、2号は検察官にとって過度に好都合な規定であって、憲法37条2項適合性が疑われるような条文である(他にも合憲性に疑義があるのは、接見交通権の制約として捜査の必要性を条件として認められる「接見指定」を規定する39条3項ではないだろうか)。

 

 同項1号は、供述不能であるかもしくは供述の相反性が認められることを要件とするだけで、2号に比べて要件がより緩和されている。しかしこれは、訴追する側の検察官にも訴追される側の被告人にも味方しない「公正中立」な第三者的判断者であることが一応の建前になっている裁判官の面前での調書の証拠能力に関する規定なので、百歩譲ってまだ認められもしよう。

 

 だが2号となれば話が違う。検察官は被告人の単なる一対立当事者ではなく公益の代表者としての側面を有するというのが緩和される理由の一つになっている。判例・通説は2号書面の違憲性を否定しているが、少数説ながら違憲説も存在する。ただその少数説だって、2号全文の違憲性を主張する説もあれば、2号前段と後段を分けて、前段につき特信状況を相対的でななく3号同様の絶対的特信状況を補って解釈しない限り違憲であると解する学説もあれば、その他諸々の学説が存在している。

 

 いずれにせよ僕としては、当事者主義的訴訟構造を形成しているのがわが国刑事訴訟法の大原則であると解されてきた以上、利害対立者である検察官の面前でなされた調書の証拠能力は司法警察職員に対するそれと同様の扱いを、すなわち3号書面として扱うのが妥当であると思われる。検察官が参考人に対して誘導するかもしれないし、場合によっては別の事案について刑事訴追しないと約束して参考人の供述を得るという危険性だってある。その時、被告人にこの調書にある供述者に対して反対尋問できないということは、冤罪の温床になるだろう。

 

 一刻も早くこの321条1項2号を3号の要件に限りになく近づける内容に改正するべきだが、どうもそういう議論が巻き起こらないのである。「人質司法」の問題も当然批判されるべきだが、過剰に検察側に肩入れするこの刑訴法321条1項2号の改正も、目立たないかもしれないが実は大きな問題なのである。

ヤンキー研究

 打越正行『ヤンキーと地元』(筑摩書房)と知念渉『<ヤンチャな子ら>のエスノグラフィー』(青弓社)と立て続けに社会学的な「ヤンキー研究」本が出版された。社会学の中のエスノメソドロジーに分類される研究に関する書籍だが、この方面の先駆的研究書は、言わずと知れた佐藤郁哉『暴走族のエスノグラフィー-モードの叛乱』(新曜社)で、当然この2つの書も本書を意識したものだろう。佐藤の著作は、主として京都の暴走族「右京連合」(すでに消滅しているだろうけど)という複数のチームからなる連合体にスポットを当て、これを単に外部から観察するのでなく、彼らの中に入り込み寄り添いながら彼らの生態を観察・記述していくとう日本では画期的な研究だった(といっても当事者ではなく、あくまで研究者としての視点は維持されたままだが)。

 

 打越の書は、広島と沖縄の暴走族の中に入って、時には警察沙汰を起こしながら、長い時間をかけて彼らからの信頼を得るにまで食い込んだレポートになっているだけでなく、当事者と観察者の二重の視点を併せ持つ貴重な体験記録といいうる。他方、知念の書は暴走族というわけではないが大阪のいわゆる「底辺校」にいるヤンキーに焦点を当てる。両者に共通する点は、「ヤンキー」の多くがおかれる社会経済的条件へのこだわりである。もちろん、このことは何も特異なことではなく、社会学の研究である以上、生活の行動パターンがそれ自身だけで説明されるわけもなく、マルクス主義的な立場によるものでなくとも、下部構造への意識は必要不可欠である。ただ残念なのは、既存の理論を事例に当てはめるだけでなく、当該理論とは別の理解の枠組みがありうることや、社会学的分析には収まらない別の積極的側面からの見方も提示して欲しかったという不満がやや残るものことだ。理論的分析の深度がやや浅いのではないかという不満もある。そういう不満があるが、ともかく彼らの懐の中に飛び込んで長い時間をかけて粘り強い研究をやり遂げた著者の労を考えると、力作であるとの評価は動かないだろう。

 

 研究対象の内部に入って観察した結果を報告するような著作は米国では結構存在し、例えばヴァネッサ・パンフィルという女性の犯罪社会学やクイア理論を専門とする研究者によって書かれたThe Gang's All Queer-The Lives of Gay Gang Members(ニューヨーク大学出版会)は、単なる犯罪社会学の研究書でも単なる「犯罪集団」のエスノグラフィックな著作でもなく、犯罪社会学なる学問そのものに対する反省をも含めた批評的視点にも彩られた好著である。パンフィルは、オハイオ州コロンバスのギャングの集団の中に入って行き、50人ほどのゲイのギャングたちの生態をインタビューを交えながら描写していく。ゲイのギャングやヘテロセクシャルのギャングあるいはバイセクシャルなギャングとそれぞれのディスポジションの違いにも触れながら、これまでの犯罪社会学におけるステレオタイプ化されてきた言説を覆していく。

 

 「暴走族御用達」の雑誌『チャンプロード』が数年前に廃刊の憂き目に遭ったが、これには、少子化による若年人口減少に加えて「ヤンキー文化」自体が廃れ、リスクを恐れる打算的な思考を持つ者が増えてきたことからくる暴走族構成員数の激減から需要がなくなってきたこと、『チャンプロード』が各都道府県で有害図書指定を受け販売が難しくなってきたことなどが影響している。昔は、『チャンプロード』だけでなく、『ライダーコミック』や『ティーンズロード』あるいは『ヤングオート』など暴走族に入っている青少年や暴走族に興味を抱く人々を対象にした雑誌があったが、数年前からは『チャンプロード』のみが暴走族やヤンキーを扱った唯一の雑誌となり、これすらもが廃刊となって、この手の雑誌は絶滅した。とはいえ、「ヤンキー」が絶滅したかとなると事態はそうではなく、例えば茨城・栃木・群馬といった「中途半端な田舎」の代名詞となっている北関東にはまだ多く生息する。だが、こと暴走族となると、ここ数年でほぼ壊滅状態になり、ごくたまにゲリラ暴走がある程度となり、主体は一応交通ルールを遵守する旧車會に変わった。

 

 打越の書は、本土では壊滅状態になった暴走族がまだ存在する沖縄(那覇市街地から浦添方面へつながる国道58号線では、暴走族に出くわすことがよくある)の暴走族に何年もかかわる。そこでわかるのは、沖縄のおかれた経済的構造の矛盾である。暴走族やヤンキーという「非行少年」は、この企業社会日本における政治的経済的諸矛盾の周辺領域に現れた象徴的な現象であって、その意味では一つの「社会病理」としての現れであるという診断は、ある程度理解できる。かつて校内暴力が吹き荒れた時期があったが、これも日本社会における企業社会化ともいうべき権威主義的支配体制の矛盾の周辺部分に現れた現象として理解することもできる。僕は右翼団体とかかわっているので、かつて暴走族に属していた者で右翼の構成員になった者は相当数に上ることを知っているし、昔ともなればなおさらである。中には暴走族のチームごと政治結社になったケースもある。

 

 打越が、沖縄のヤンキーが置かれた現状を分析して得た結論は、予想の範囲内であることは確かながらも、それを実地に検証したことに意義がある。沖縄には地域ごとの密な共同体があって、その共同体に支えられている者は多少所得が低かろうと十分生活していく余裕はあるが、その共同体から外れてしまった者にとってはそうしたセーフティネットは機能しない。別の人的紐帯に結びつけられ、その中での上下の身分秩序が搾取構造にまで発展する時、彼らは経済的に収奪される身に転落する恐れを抱えながら沖縄の地で生きることを余儀なくされる。中にはそれに耐えかねて沖縄の地から本土に逃げて行く者もいればヤクザになる者もいる。間接的な知り合いでしかないが、沖縄の右翼団体に所属しつつ同時に沖縄のヤクザになっている者がいるが、彼は最近まで沖縄市のミュージック・タウン(MT)前の交差点、ちょうど嘉手納基地のゲートの程近くの場所で暴走行為に明け暮れていた。その彼が、辺野古基地反対を叫ぶ市民団体のテントに抗議街宣に出向く時には、やはり胸中複雑な思いが交錯している。ヤクザとして那覇市の風俗街からショバ代を回収する際もまた然り。暴力は下へ下へと流れていく。知念の書は、ヤンキーの意識に焦点をあて、いわばヤンキーの「社会化」の過程を追う感じになっている。もちろん、彼らの大半が置かれた現実の描写も怠らない。

 

 そういう社会学的対象として見ると、逆に理解できない側面も出てくる。というのも、東京のヤンキー文化に関しては必ずしも彼らの分析が妥当しないケースが多いからである。東京のヤンキーは、確かに下町を拠点とするチームに関しては妥当する面もあろうが、比較的裕福な層の子弟もかなりの数に上る。中高一貫校でヤンキー文化に親しんでいた者もおり、例えば関東連合などは、裕福な家庭で育った者もかなりの数いる。そういう棲み分け構造が見られる東京都心のヤンキーシーンからすると、両者の著書で描かれているヤンキー像は、従来のそれとあまり変化はない。それよりも、別の積極的側面をも取り出してもらいたい気もしないではない。つまり、社会学的分析からは漏れてしまう文化的ないしは批評的な積極的意味を見出したいという思いがある。例えば、婆沙羅な文化の継承という面からみると、彼ら彼女らはわが国に連綿と続いてきた日本文化の一側面の嫡子でもある。

 

 わが国の神々は和魂と同時に荒魂をも持ち合わせてきた。アブラハムの宗教における超自然の絶対者としての神ではなく、人間と同じく喜び、泣き、笑い、怒り、快楽をも愉しむ神々であって、スサノオノミコトの荒ぶる魂はディオニソスの灯であるかの如く継承され、規律を撹乱する狂喜乱舞を演じてきたのである。江戸の平穏の最中に間欠泉のように湧き出た旗本奴や町奴のような奇抜な格好をした傾奇者たちの系譜にヤンキーやある意味ではギャル男の最も先鋭化された形ともいうべきセンターGUYも位置づけられよう。ともに市民社会からは煙たがれる存在である。彼らは、時には性規範をも撹乱する存在であった。わが国に本格的にキリスト教が入ってきた明治期より前では、例えば男色の優越性が議論された『田夫物語』にあるように、男色は特に傾奇者とされた連中の間で盛んであって、傍若無人に暴れまわる荒くれ者同士での性行為は日常茶飯事でもあった。戦国の世の武士の間でもそうだったし、荒くれ者の集団であった新撰組でも男色行為が見られた。明治期でも郷中教育で結束が固かった薩摩武士の若者の間でも男色の風習は残っていたのでという。

 

 ヤンキーは、先輩ヤンキーへの憧れもあって自ら進んでヤンキー化していく。そこに何らの性的関心がないというわけはない。現在の暴走族は上下関係がさほど厳しくないが、一昔前の暴走族では、先輩に掘られたり逆に掘ってくれとせがまりたりした例もあったようだし、少年院では同性愛行為は、さほど珍しいものではないとも聞く。もちろん、表向きにはそういった面は隠されているが、規範の逸脱者たちの過剰な暴力性が同性愛への志向へと転化する現象は、ある種のわが国の伝統の一面を形作っているともいえる。かつて存在したセンターGUYの中でも様々な分身を生き、GUY同士で見境のないチャラ打ちの快楽に身を委ねる者だって存在した。

 

実際、センターGUYであった名古屋に住む年上の知人は、単に「マンバ」と称していたが(彼にとっては、男性も含めて「マンバ」と総称していた。センターGUYは2000年代前半から半ばまでが全盛期であったが名古屋への伝播は時期が多少ずれていて、その知人も2010年過ぎても大学に通いつつ名古屋で「マンバ」の格好をしていたという)、男同士のセックスはあったと言っており、自身も「ゲイ寄りのバイ」と認めていた。当初は隠していたものの、気心知れると男同士でのセックスへの欲望が抑えきれずに最初は軽いノリとして互いの性器を見せ合いつつ性行為への誘いをかけ、最終的にはセックスに至るケースもあったのだそうである。社会学的な分析対象として「ヤンキー」を取り上げるのも結構だが、やるならセクシャリティについてももう少し突っ込んだ踏み込みをしたものがあってもいいのではないか。

学問研究の誠実性

 毎年同様、4月12日に東京大学の入学式が行われたが、そこでの上野千鶴子東京大学名誉教授の祝辞が一部で話題になっているようだ。その内容に賛同する者もいれば反発を覚える者もいて、入学式での話題をさらったという意味では上野千鶴子の狙いは半分以上果たせたと言えるのかもしれない。

 

 東大入学式をフェミニズム運動のパフォーマンスの場としてよいのかという疑問を差し挟む者もいようが、僕としては程度の問題という留保を伴いものの、多少のパフォーマンスは構わないと考える。伝統の継承というような特別な意義を持つわけでもない儀式でしかない単なる東大入学式という場を特別視する必要などない。

 

 むしろメディアの態様に見られるように、いまだに東京大学の入学式を特別扱いする真似は馬鹿馬鹿しいのでやめるべきであろう(おそらく関西のメディアならば、京都大学の入学式を取り上げているだろうと想像するが、これもアホらしいことなので京都大学を特別視するような真似はやめるべきである)。

 

 東京大学京都大学の所属研究者の個別の研究成果について人類史における知の発展として取り上げることは結構だが、単に入試に合格しただけに過ぎない者たちを殊更取り上げることは、中身がないのに根拠のない自尊心だけを逞しくする鼻持ちならない勘違い野郎を生むだけにしかつながらない。

 

 上野千鶴子も若干触れていることだが、世界的に見て東京大学はさして有名な大学とは思われていない。僕の所属する職場には米国のアイビーリーグの大学や英国のオックスブリッジやLSEの出身者が大量にいるが、東京大学の存在すら認知していない者などざらに存在する。一部の理科系分野の研究者は個人として知られているが、その所属先の東京大学まで知っている人となると多いとは言えない。会社に在籍しながら通ってMBAを取得したコロンビア大学大学院(コロンビア・ビジネススクール)の学生の中でも認知度は低く、アジアの大学ではシンガポール国立大学清華大学あるいは香港大学の方が知られているとさえ言える有様だ。文科系ともなると、東京大学の「ブランド」など世界では全く通用しない。

 

 東大生は、ともすればメディアに躍らされているうちに、ただ東京大学に在籍しているというだけで己が一端の知性を有したエリートだと勘違いする「井の中の蛙」と化してしまわぬように、よほど注意しなければならない。

 

 かつて蓮實重彦は「東大生の3割程度は世界的にも通用する人材」だと述べていたが、残念ながらこの評価は甘過ぎであり、実態は1割もいないものと思われる。東大の事務方の上層部は薄々そのことに気がついているものだから、今更ながら「グローバル人材」がどうのこうのと言い出しているが、これがまた完全に的外れである。

 

 東京大学を真に優れた大学にしたければ、まず入試段階での抜本的な改正が求められるだろう。そもそも共通一次試験を導入した時点から間違っていたわけだし、さらに言うならば、福田恆存が述べていた通り、明治期以来の教育システムが失敗していたと率直に認めて、立身出世主義からくる学校歴社会を破壊しなければ、つまらない人材を大量に産み落とすことにしかならないだろう。

 

 だから、事の本質は東大だけにあるのではなく、教育システム全体にある。少なくとも、大学院に世界中の優秀な学生が押し寄せてくるような環境づくりが必要であろう。最近では外国人教員も増えてはきているが、やはり日本人教員が多すぎる。女性研究者も層が薄い。大した業績もない教員が山のようにいて、しかも経歴からして画一的である。

 

 世界から一流の研究業績を持った研究者を大金払ってでも来てもらえるような研究環境を整えることもやってみるべきだろう。清華大学から米国のMITに進んだ職場の同僚が言っていたことだが、清華大学の学事顧問には大量の外国人がいるらしい。中には、米国の金融資本も絡んでいるから、それが一概に良いとまでは言わないが、世界的な研究業績を誇る学者たちによるアドバイザリーにより、重要な基礎研究費用もどんどん積み増ししており、また彼ら彼女らが米国のアイビーリーグをはじめスタンフォード大学シカゴ大学といった大学の大学院との橋渡し役をも努め、研究者の人的交流も盛んに行われている。

 

 ところが東大となると常に内向きで、諸外国の優秀な連中は、日本研究者を除き、誰も見向きもしない。身内だけで自画自賛してことさら東大を特別視する状況をみるにつけ、ますます日本の大学の地盤沈下は進行していくだろうと憂国の情にかられる。

 

 入学式での上野千鶴子の祝辞の内容に関して、個別にコメントすることは控えるが、半分賛成・半分反対というのが正直な感想だ。どうしても付きまとう違和感は、統計的データの恣意的解釈が目立つという点である。統計的有意な差とまでは言えないデータをさも女性差別があるかのようにほのめかす言説は、この人の学問に対する誠実性への疑念を招き寄せてしまいかねないので、おやめになった方がいいかと思う。論文に求められる首尾一貫性は必要ないものの、明らかな矛盾を矛盾と考えずに述べてしまう軽薄さには首を傾げざるを得ない。また、自己の業績を自画自賛したい気持ちもわからぬではないが、ともすれば独り善がりの滑稽とも映るので、これもやめた方がいい。

 

 上野の学問に対する姿勢に関して疑念を表明している堀茂樹慶應義塾大学名誉教授の発言を目にすることがあったが、その批判の趣旨は、社会運動家としての立場と学者としての立場を峻別しないことを是とするかに見える上野千鶴子の学問に携わる者としての「知的誠実性」の欠如に対する批判と言えるだろう。

 

 ちなみに堀茂樹はフランス語の熟達者で、アゴタ・クリストフ悪童日記』の翻訳者としても知られている。またアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによる『「知」の欺瞞-ポストモダン思想における科学の濫用』を日本に一早く紹介した一人であり、この書の翻訳の協力者でもある人物である。大学の語学の授業では到底物足りないと感じた僕は、東京日仏学院に一時期通ったことがあり、そこの日本人やフランス人の講師陣の中に堀茂樹がいたことを覚えている。どうしても発音が下手糞な日本人学者の話すフランス語が多い中(フランス留学経験のある研究者ですら、残念ながら会話も発音も下手糞なのが多い。実は、東京大学法学部の教員も英仏独語は一応読めはするものの、まともに書けない話せないというがごまんと存在する。名前は差し控えるが、英語でさえヤバいのがいる。国際学会では用意したスピーチ原稿は読めるが、質疑応答になるとアワアワ言っているだけで何言ってるかわかんないという感じ)、堀茂樹のフランス語は見事で感心させられたりしたものである(但し最近、ちょっと小沢一郎を買いかぶり過ぎてる感がしないでもないが)。

 

 堀茂樹上野千鶴子への批判は、僕が上野の祝辞や上野のこれまでの研究姿勢に対して抱いた違和感と重なるものがある。研究者が一個人として社会運動に参画すること自体は自由だし、学問研究に入った動機が社会の諸矛盾を改善したいというものでも構わない。しかし、社会運動の都合に合わせて学問を捻じ曲げることは、絶対やってはいけない不文律であろう。

 

 最低限の知的誠実性を持って研究しているとの信頼があるからこそ、学者が専門にしている学問分野について述べる見解に対して、一般の者は一応の敬意を持って尊重するという態度で遇するわけだ。しかし、統計的有意さがない誤差でしかないデータのみを取り出して自説に都合よく利用したり、逆に自説に不利なデータを意図的に無視するといったことを仮に肯定しているとするなら、それは学問研究とは言わず単なるデマゴギーと化する。

 

 かつて江藤淳が、上野千鶴子のことを学者にしては文学がよくわかっている珍しい学者であると褒めていたが、そうした優れた資質を持った人物が、よもやそんなことまではしていないと信じたい。真実追求義務を持つ検事が、被告人の罪を立証するために被告人にとって有利な証拠を隠しても構わないとする態度を肯定するのと同じ過ちを犯していることになるからだ。社会運動家としての立場と研究者としての立場の最低限の峻別が求められる所以である。

 

 社会学の研究には中立的位置などありえないと開き直るならば、社会学の研究は単なるイデオロギーであって、学問的な議論の建設など不可能となり、極論すればゲバルトによる正当化しか残されないだろう。もちろん、中立を装いながらも実は特定の政治的経済的利害に絡めとられた言説は確かに存在する。そこで、その言説のイデオロギーを暴露する知的営為も学問への反省的姿勢として意味は持つだろう。

 

 しかしその意義から、極端に中立などありえないと開き直って学問上の知的誠実性を失って自身のイデオロギーを喧伝することを肯定してしまっては、それはもはや学問としての資格はない。イデオロギー批判を展開したマルクスは、しかし全てがイデオロギーで科学的認識は成り立たないなどという暴論は吐いていない。イデオロギー批判の自家撞着に関する議論を今更反復するまでもなかろう。学問として可能な限りイデオロギーを払拭した姿勢を理念としつつ、しかし同時に自らの営為が何によって可能となっているか、あるいはともすれば特定利害に絡めとられ誘導されているやも知れぬという懐疑的反省意識を伴いながら遂行する意志がなければ、学問は自らの場を喪失してしまうことだろう。

毛沢東のマキャベリズム:遠藤誉『毛沢東-日本軍と共謀した男』(新潮新書)を読む

 毛沢東は、大日本帝国による大陸進出によって追い込まれた自国の窮状を打開せんがために「抗日救国」を掲げて日本軍との戦闘を勇敢に戦い抜き、大日本帝国敗戦後において蒋介石率いる国民党との革命戦争に勝利して中華人民共和国を建国した英雄的革命家であり、建国後は大躍進政策プロレタリア文化大革命といった幾つかの過ちがありつつも総体としては中華人民共和国を世界有数の大国たらしめた偉大な政治指導者である。このような評価が今も尚、中華人民共和国の少なくとも表向きの評価として続いている。しかし実際のところ、かかる毛沢東像は事実に基づかない虚像であり、毛沢東は自己の権力欲を実現するために自国の民を平気で裏切り、あろうことか日本軍と共謀して抗日戦争の足を引っ張ることすらやっていた「中華民族の裏切者」であった実像を歴史資料の詳細な分析の上に描き出したのが、2015年11月に上梓された遠藤誉『毛沢東-日本軍と共謀した男』(新潮新書)である。

 

 毛沢東率いる中国共産党こそが日本軍による侵攻を撃ち破り、蒋介石率いる国民党軍を台湾にまで追い込むことによって革命を成し遂げたという「神話」を国家統治の正統性の源泉にしている中華人民共和国の、正にそのレジティマシーの源泉に対する疑義を呈する点において、本書は中国共産党から見て「危険な書」と映るに違いない。かつて毛沢東の私生活の一面を暴露した著作を書いた著者が謎の不審死を遂げたことがあったが、本書も、中国共産党の統治の正当性に関わる著作だけに、危険を顧みず本書を世に提起した著者の勇気にまず敬意を表したい。

 

 著者は、その学究生活を理論物理学の研究から始めたという。理学博士号取得後、千葉大学筑波大学の教授を歴任する一方で、中国社会科学院客員教授上海交通大学客員教授をも務めた理論物理学者で、現在は筑波大学名誉教授、東京福祉大学国際交流センター長、特任教授におさまっている。著者は旧満洲国新京で生まれ、中国共産党による長春包囲網で数十万人もの餓死者を出した死線から命からがら生き延び、昭和28(1953)年に帰国するまでシナ大陸で育ったという経歴を有している。1980年代からはシナ人留学生受け入れに関わり、シナでの体験記や現代シナ社会論についての著作もある。最近の著書は『「中国製造2025」の衝撃-習近平は今何を考えているのか』(PHP研究所)で、この書では中国共産党が世界覇権を目指して量子暗号技術や宇宙開発技術に傾注する姿が描かれている。最近の米中衝突は単なる貿易摩擦ではなく、次世代の科学技術の基幹を担う分野のスタンダードを米中どちらが担うかという経済的覇権及び軍事的覇権と結びついた国家安全保障全般に関わる覇権争いであることがよく理解できる著作になっている。

 

 まず断っておくべきは、本書は最近書店に平積みされている数多の反中韓本のような自称「保守」による単純なプロパガンダ本ではなく、日本側の資料や中共側の資料そして米国へ逃げ延びた元中共の者の残した資料を突き合わせて、そこから合理的に推論される毛沢東の実像を描き出そうとしており、反共イデオロギーに基づいて事実を捻じ曲げて論じるような真似はしていない。その意味で、著者の姿勢はどこぞの国のメディアに盛んに登場し、政権の覚えめでたく嬉々として審議会などのメンバーになっている類の御用イデオローグのような恥ずべき人物とは異なり、本書は特定のイデオロギーから立論した書物にはなっていないことを明確にしておかねばならない。また毛沢東の言動をあげつらって、これに対して道徳的に断罪するようなこともしていない。それどころか、むしろ毛沢東という男のスケールの大きさが際立つような記述ぶりであることに特徴がある。それと同時に、幼い頃、毛沢東の言葉に胸を熱くさせた経験がありながらも毛沢東の実像を知った時の複雑な感情との葛藤に苦しんできた著者自身の毛沢東への訣別の言葉として個人的意味合いをも併せ持つところが、本書を更に面白くさせている。

 

 毛沢東の権力欲や残虐性については国内外の数多の書物が伝えているし、左翼系の知識人による毛沢東に好意的な書物からでさえ、そのことが伝えられてきた。例えば竹内実『毛沢東』(岩波新書)は、毛沢東に肯定的評価を抱きながらも、毛沢東にあったであろう学歴コンプレックスから来る知識人への憎悪や秦の始皇帝を憧憬し皇帝権力を掌中に収めつつ個人崇拝をも要求する権力欲の強さを、『中国の赤い星』の著者であり毛沢東崇拝者であったエドガー・スノーに対して述べた彼自身の言葉を紹介することを通じて表現しているし、秦の始皇帝の行った焚書坑儒に倣って大量の自国民を弾圧・殺害しても始皇帝の数十倍、数百倍のことをやったと自慢するなどの残虐性も描いている。『毛沢東の私生活』を読めば、毛沢東が他人には禁欲的な質素倹約の生活スタイルを求めておきながら自分だけは贅の限りを尽くし、ロリコン趣味が高じて多くの少女との奔放な性生活を弄んでいたこともわかる。

 

 遠藤の本書は、そういう意味での毛沢東の悪人的性格の暴露本という性格のものではない。支那事変の最中、毛沢東は何をやってきたのかという点にスポットを当てた極めて貴重な研究の記録であり、その意味するところとは、「抗日救国」を掲げて革命戦争を戦い抜いたという「神話」が実際のところ虚像であって、むしろ日本軍に国民党軍の情報を密かに売り渡すことで日本軍と戦っていた国民党軍の足を引っ張り、自らは日本軍のシナからの撤退後にひかえる国民党軍との戦闘のための組織の温存を図り、あくまで日本軍とは戦う振りをしていたに過ぎなかったことを、日本の特務機関と中共のスパイとの共謀関係に焦点を絞って詳細に描写していくことを通じて明らかにしていくところが本書の真骨頂なのである。手軽に一般読者が手にしやすい新書というかたちで世に出されたことを喜びたい。

 

 本書は、「はじめに-中華民族を裏切ったのは誰なのか?」から「おわりに-毛沢東は何人の中国人民を殺したのか?」までの間に7章からなる文章を挟む形で構成されている。まず「はじめに」の箇所で、本書の趣旨が一瞥できるようになっている。中華人民共和国の人民は、シナ事変において毛沢東率いる中国共産党軍こそが大日本帝国軍と勇猛果敢な戦いを行い日本を敗戦に追いやり、反対に蒋介石率いる国民党軍はまともに戦おうとしてこなかった売国奴だと教育で教え込まれており、現在の北京政府も、2015年9月3日に開催された「中国人民抗日戦争勝利と世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典」に見られる通り、その「神話」を大々的に喧伝している。しかし実際は、中共軍はほとんど日本と戦わず山奥の延安に籠り、それどころか日本軍と戦う国民党軍を敗退させるべく日本側の特務機関と内通して国民党軍の情報を流し続けた事実について、その概要を述べている。その目的は、国民党軍の力を消耗させて機が熟せばその国民党軍を叩くことで自分がシナの覇者になるというものだった。

 

 毛沢東と日本の特務機関との関係を、特に潘漢年という中共のスパイと日本の特務機関「岩井公館」との関係を中心に描いていく。1939年に毛沢東は、潘漢年を「岩井公館」に潜入させ、外務省の岩井英一と懇意にさせ、日本側からの高額の情報提供料の見返りに国民党軍の軍事情報を提供するとともに、岩井英一に中共軍と日本軍との停戦案すら打診していた事実を述べる。また潘漢年は、毛沢東の密命を受けて大日本帝国陸軍参謀影佐禎昭大佐と密会し、日本の傀儡と言われた汪兆銘政権の特務機関「76号」とも内通し、中共軍との和議を申し込んでいることまで描いている。ところが、1949年の中華人民共和国建国の直後、毛沢東の個人的な意思決定により潘漢年は逮捕投獄され、1977年に獄死する。死後5年後に潘漢年を知る者らの努力によって「名誉回復」されることになったが、その際、中共側は潘漢年や袁殊といったスパイを、日本軍の情報を引き出して中共軍が日本軍と戦うのに有利なスパイ活動を行った英雄と転倒したかたちで祭り上げる。

 

 著者は、資料に基づきこの中共側の主張が全くの虚偽であったことを示していくことを、この場で予告する。さらに、中華人民共和国元帝国陸軍軍人を招聘した際も、「日本は謝罪する必要はなく、むしろ我々は日本軍の進攻に感謝しているぐらいだ」と述べた件を紹介し、また南京事件についても毛沢東は一生涯ただの一度も触れたこともなく、また教科書にも書かせなかったことも、『毛沢東年譜』という中共中央が編集した資料から示していく。もっとも、著者は南京事件が歴史上の事実としてあったかなかったについては言及していない。ここで重要なのは、毛沢東自身が南京事件について触れたことがないという事実なのである。よって著者が「南京事件否定説」を主張していると早とちりして誤解するようなことがないよう注意しておくべきであろう。ちなみに僕の南京事件についての見解は、事件の直接証拠の存否は専門家ではない僕は知る由もないので断言は慎むべきだろうが、様々な間接証拠を積み重ねていくならば、中共側の主張は大いなる誇張に満ちてはいるものの、少なくとも1937年12月13日からの数週間の間に、陸軍中央に動揺が走った程の何らかの虐殺行為があったのだろうと推認する立場である。したがって、いわゆる「南京事件否定派」ではない。もちろん犠牲者数が中共が主張する30万人あるいは40万人という規模の大虐殺が起きたとは信じられず、また犠牲者が全て無辜の市民だったのか疑わしいとも思っている。無辜の市民を装った便衣兵であったかもしれないからだ。ただ、支那派遣軍総司令官を務めた岡村寧次大将の残した日誌など諸々の間接証拠から推察するに、本土の陸軍中央に動揺が起こるほど軍紀が乱れあってはならぬ事態が発生するといった緊迫した状況があったと考えるのが合理的ではないかと思われる。「大虐殺派」の主張は誇張に過ぎるし、さりとて渡部昇一のような「まぼろし派」の主張は無理筋の説だろう。秦郁彦南京事件』(中公新書)のような「中間派(数百人~数万人)」が当たらずとも遠からずといったところかもしれない。

 

 さて第一章「屈辱感が生んだ帝王学」では、毛沢東の生い立ちと後の知識人憎悪のきっかけとなったエピソードが描かれている。毛沢東1893年12月26日に湖南省長沙府湘潭県韶山の富農の5人兄弟の三男として生まれたが、兄たちは早世したので実質的には長男として育てられた。貧乏人からのし上がって富農になった父親は、教育の重要性を認めず、勉強しても何の得にもならないとして勉強好きな毛沢東をしかりつけるも、無類の読書好きだった毛沢東は父親に隠れながらもの凄い勢いで貪欲に勉強するという生活を送った。清朝時代の禁書扱いだった書物にも手を出すほどの少年だったという。14歳の頃に『支那瓜分之命運』という本に出会い、国家というものを意識し始めることになり、明治維新関係の書物を読み漁り西郷隆盛に憧れて実家の元を離れる。授業料が無料だった湖南第四師範学校入学して楊昌済という倫理学者と運命的な出会いを果たす。楊昌済は1902年から6年間日本留学しており、東京高等師範学校(後の筑波大学)で学んだ後、英国、ドイツ、スイスと留学して1913年に湖南省に戻ってきていた。毛沢東の先生というわけだ。楊昌済は毛沢東を気に入り、毛沢東も楊の講義を欠かさず聴講するという関係だったが、この講義に使用した教科書がドイツ人哲学者フリードリヒ・パウルゼンが著した『倫理学講義』で、毛沢東は空白部分にびっしり書き込みするなどこの書物を熟読した跡が残っているらしい。著者は、ここから毛沢東が「現実主義」という論理を引き出したことを指摘し、後の『矛盾論』や『実践論』の基礎を形成する柱を作り上げていったと推理している。北京大学に異動になった楊昌済は、当時知識青年の流行であったフランス留学(周恩来や鄧小平もフランス留学組だ)に毛沢東を誘い、そのためにも北京大学受験を進めている。ところが受験資格を充たす学歴がなかったので、例外的に一年間北京大学の図書館の雑用を務めることを条件に受験を許可する提案がなされ、毛沢東はその雑用係に就くが、エリートが集まる北京大学の教員や学生たちに邪険に扱われるなど屈辱的な経験を味わい、そのプライドが傷つけられた毛沢東は、北京大学の学生を中心に起こった「五・四運動」の直前にもかかわらず北京を去って長沙の小学校の教員に戻っていく。

 

 著者は、この北京大学図書館での屈辱感が復讐心となって後の知識人憎悪の言動につながったのではないかと推察している。確かに、後に権力を手に入れた毛沢東は、この時期に出くわした人間のことを一々記憶していて、その時の怒りの感情を罵詈雑言で表現している。劉少奇の失脚と再び権力の表舞台に立つ目的のためにプロレタリア文化大革命を発動したときも、大学を閉鎖し大学院を撤廃し、北京大学清華大学を頂点とする学校教育制度を破壊し(但し、核物理学の研究者に対しては手厚く遇したという。核開発が不可能になってしまうからである)、普通高校以上の学歴を持つ者を「知識人」として辺境の地に下放し肉体労働に従事させ、その者に対して民衆に暴力をふるわせ屈辱を与え、息絶えた時にはじめて毛沢東は爽快感を味わうというほど、この時の屈辱に対する復讐の怨念は凄まじかった。

 

 第二章、第三章は、満洲事変から支那事変そして西安事件と第二次国共合作までの歴史を辿り、中共が日本軍のおかげで窮地を乗り切り、日本軍と戦っていた国民党軍の力を削ぐための活動に従事していた事実が描かれる。ここでは、革命の根拠地延安において毛沢東共産党内での権力を確立するために数多くの同志たちを虐殺していた事実が描かれている。目的達成のためには手段を選ばず、権謀術数によって同志を罠にはめ粛清を連続していくことで恐怖による支配を達成していく過程が描かれるのだ。建国後の反右派闘争やプロレタリア文化大革命の時にも見られた手法である。

 

 第五章がメインの章にあたり、ここでは潘漢年や袁殊という中共スパイを日本の特務機関「岩井公館」や汪兆銘政権の特務機関「76号」に派遣して国民党軍の情報を高額な情報提供料と引き換えに売り渡し、中共自身はその力を国民党軍を打倒するために温存するという戦略をとって、日本軍とはほんとんど戦わなかったという事実が具体的な資料に基づいて立論していく。後の中共側の理屈が辻褄の合わない詭弁であるかを一つ一つ暴いていく手捌きは見事というほかない。第六章は、毛沢東の政敵であった王明の手記と照らし合わせながら自説を補強していく役割を果たしている。第七章は、毛沢東が戦後に元帝国軍人を台湾から切り離し自らの味方につけようと画策したこと、また本音のところで日本軍に感謝していることが、元帝国軍人を中南海の自らの執務室に招いたときの話とともに語られる。特に遠藤三郎との会見での発言も面白いし、毛沢東支那派遣軍総司令官だった岡村寧次大将を極めて高く評価し、岡村を自陣に招き入れたいと工作した箇所も見物だ(毛沢東は、岡村ら旧大日本帝国陸軍将校の優秀さを評価しており、また彼らが蒋介石の側につくのを恐れてもいた)。「おわりに」では、毛沢東が一体何人のシナ人民を殺したのかの推計も書かれており、稀代の殺人鬼としての毛沢東の実像をまとめている。

 

 というように本書は、自己の権力欲の実現のために権謀術数を張り巡らし、人民の生命などつゆほどにも感じずに目的達成に手段を選ばず邁進していったマキャベリストとしての毛沢東という男の人並外れたスケールを描いている。だが著者は、だから毛沢東は稀代の大悪人であったと告発しているわけではない。あの広大なシナ大陸において「天下を獲る」ということが日本では想像もつかないほど困難を極め、またそのぐらいのスケールを持った男であったからこそ、あのような皇帝型権力を掌握することができたのだということがよくわかる書物になっている。天安門広場に群がる人民を睥睨しつつ毛沢東エドガー・スノーに語った言葉が思い出される。「シナには皇帝が必要であり、個人崇拝も必要なのだ」と。

 

 もっとも、若干の違和感は残る。それは、毛沢東が日本軍との戦いをサボタージュしていた事実をクローズアップするあまり、他方の蒋介石がともすれば日本軍と勇猛果敢に戦った中華民国の英雄であるかのように映ってしまう効果を持ってしまうという点である。蒋介石毛沢東ほどではないにせよ胡散臭い男で、清朝王室の墓を荒らして宝物を分取って妻の宋美齢へのプレゼントにするなどの行為を働き、満洲族と漢族との相互不振を助長して中華民国の人民として「国民化」する契機を流産させてしまった点や、故宮博物院の宝物を強奪して台湾に持っていった点などを考えるならば、蒋介石こそ中華民族のために日本軍と勇猛果敢に戦った者だとする評価を与えるのは、甘すぎるような気もしないではない。加えて贅沢を言えば、共産党と国民党との間を多重スパイとして暗躍していた野坂参三にも多少はスポットを当ててもらいたかった。それはともかくとして、本書が浮かび上がらせた問題は、こうした毛沢東及び中共のたどってきた歴史的事実を捻じ曲げて美談の「革命神話」で国民統合を図りつつ、日本に対して「歴史カード」をちらつかせて外交的恫喝をしかけてくる現在の中華人民共和国政府の欺瞞であり、その欺瞞に呼応して嘘を真実と受け止め恭しく傅く外務省をはじめ日本の左翼やその同調者に見られる媚中姿勢である。そのことを明確にしてくれたことが本書の優れた点である。残念ながら、左翼系知識人が多い状況やシナ大陸での誤った日本の行動に対して過剰なまでの贖罪意識を持つ者が多い状況のため、事実を事実として指摘する行為ですら、ともすれば反中プロパガンダの右翼的行為であると糾弾されかねない。レッテル貼りが横行する日本の知的風土の中で、本書を上梓した著者の勇気に改めて敬意を表したい。

 

 かつて、その死が第二次天安門事件のきっかけとなった胡耀邦は、1979年2月の中共中央での講演において次のような発言をしている。胡耀邦には一分の良心があったのである。それがまた、鄧小平や楊尚昆江沢民らにつけこまれる余地を与えてしまったのが残念というほかない。

もし、中国人民が我々中国共産党の歴史の真相を知ったなら、彼らは必ず立ち上がり、我々の政府を倒すであろう。

 

胡耀邦追悼のために天安門広場を埋め尽くした民衆に対して銃口を向けて鎮圧し、今なお、海外に逃げた活動家を国家安全部が追いかけまわしている現状がある。国内において、この事実がなかったことにして言論封殺している北京政府が「反日愛国教育」に本格的に乗り出すのは、この第二次天安門事件から数年後の90年代初めである。