shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

裾野を広げる

 強豪南アフリカを日本が破るという番狂わせを演じた前回のラグビーW杯から4年後の今年、日本で初めて開催される今大会が今日、名誉総裁を務められる秋篠宮殿下及び同妃殿下の御臨席を賜り、殿下の開会宣言の御言葉で以って無事開幕した。日本の対戦相手は世界ランクでは格下とされるも、その実力は侮れないロシア。前半開始まもなくロシアのトライを許し後塵を拝する状況となったが、すぐにバックスの好プレーからWTBの松島幸太朗がトライを決めて反撃開始。前半終盤に再び松島がトライに成功して逆転。後半にはペナルティゴールのチャンスをものにし、さらに二本のトライでロシアを突き放し、最終的は30対10で日本が勝利した。カメラ位置の問題からも知れないが、若干スローフォワード気味のパスも見られなくもなかった。

 

 ラグビーはサッカー以上に反則の判定が微妙な要素が大きく、それゆえ主審の判断次第で試合の「流れ」が一変してしまうこともある。それはともかく、一試合に三本のトライを決めた松島も素晴らしいが、one for all, all for oneの精神で団結した日本チーム全体がなしえた勝利であったと言える。中でもバックスの活躍が見落とされてはならないだろう。今回のW杯を契機に増々日本のラグビー界の裾野が広がってくれば、なおのこと言うことはない。僕自身はラグビー経験はほとんどないと言って等しく、小学生のためのラグビー教室で軽く遊び程度にプレーした経験があるものの、部活動でやっていたサッカーほどは親しんでいるとは言えない。それでも、ラグビーアメリカン・フットボールはサッカー以上に戦略性が要求されるスポーツということで、ちょっとした畏敬の対象であった。中学入学当初は、部員の少なさからラグビー部に入ればすぐにでもレギュラーになれるかなという下心もあって入ることも考えたが、中学時代はやはりサッカー人気が強くて、ミーハーさながらにサッカー部を選択してしまった。幸い出身は中高一貫校であるがゆえに中学・高校と連続していたサッカー部の人数はそこそこあり、また局地的ではあるがそこそこ強かったということも影響していたかと今にして思う。

 

 日本でのサッカー人気はJリーグの設立に伴い劇的に高まった。Jリーグの成功の要因の一つが、これまでの企業スポーツの伝統とは違って地域密着に徹して、その地域でのサッカー人口を増やすべく子供のためのサッカー教室を設けたり、プロを養成するための接着剤として機能するその他諸々のシステムを作ったり、さらに平均引退年齢が26歳と言われるプロを早期に引退するものに対する第二の人生のための再教育制度や就職斡旋などのフォローを欠かさないようにしたためであろう(この点からしても、50歳を超えてもなお現役選手であり続ける三浦知良がいかに「化け物」であるか、いかに身体のメンテナンスに気を遣っているかがわかろう)。この辺が、日本のプロ野球と違っている点である。更には日本代表チームが立て続けにW杯本線に出場したり、日韓共催のW杯が開催された意義も大きい。

 

 サッカー人気の高さから、サッカーの裾野は相当広がったと言えるが、果たしてラグビーはどうだろうか。まだサッカーや野球ほどの裾野の広がりはないように見受けられる。確かに、大阪など伝統的にラグビーが盛んな地域は存在する。公立中学でもサッカー部や野球部はなくてもラグビー部は存在するという中学は大阪に多いと聞く。事実、その影響から花園ラグビー場で開催される全国高校ラグビーでは毎年のように大阪代表の強豪チームが複数校上位に来る。おそらく優勝回数も大阪代表チームが圧倒的に多いはずである。大阪は伝統的にサッカーに強い高校は少なく、ラグビーと野球が強い。甲子園の優勝回数も大阪がダントツの一位である。ラグビー人口が大阪や福岡並みに全国的な広がりを見せれば、層の厚さが増して将来の日本代表チームのレベルもさらに高まること間違いないだろう。

 

 何事も裾野が広がらないことにはその国を代表する者のレベルは向上しない。学問研究にしても例外ではないように思われる。日本の近代化が進んだ要因の一つは、江戸期での庶民レベルにまで行き届いた教育制度である。幕末期に開国した際に日本を訪れた外国人を驚かせたのは日本人全体の識字率の異様な高さであった。大半が読み書き算盤ができ、また外国語の能力にしても幕府の役人では複数の外国語を自在に操る者は別に珍しくなかった。米国に派遣された小栗上野介忠順の明晰な頭脳と博識ぶりに驚嘆した米国人が多くいたことはよく知られている。米国の黒船を内覧した日本人学者は、その圧倒的な科学技術力に恐れおののくどころか、この程度のものなら30年もあれば我が国は追いつくことができると感じたのも、西洋の学問を吸収していけるだけの学問的素地が既に形成されていたためである。事実、明治維新から約30年後の第1回のノーベル賞から日本人学者がノミネートされているほどである。

 

 こうしたエピソードから日本人は優秀だとか、日本は凄いと礼賛論をぶちたいわけではない。学問研究が花開くためにはそれを可能にする素地が形成されている必要があり、そうした素地の形成に裾野の広がりが重要な役割を果たしているということなのである。国民レベルの教育水準の向上は、何もその人個人のためだけでなく、国力向上の観点からも重要なことである。貧困その他の理由で十分な教育を受ける機会が保障されない国家では、どこぞに埋もれているかも知れない優れた資質や才能が開花するための芽を予め摘んでしまうことになり、大きな国家的損失にもなってしまう。この「豊かな社会」であるはずの日本において、故あって十分な教育環境が行き届いていない児童が存在することは、長期的に見て国益の棄損であることに自覚的な政治家や役人がどこまでいるのか怪しくなってきているのが実情である。

 

 加えて、「科学技術立国」を宣言しておきながら基礎科学の研究費の対GDP比に占めるが割合がOECD加盟国の中で下位にある日本の文部科学行政は、ほとんど無知無能の人間の愚策のために最悪といっていいレベルである。まるで日本という国を科学研究や教育のレベルからぶっ壊しにかかっている有様である。悪名高い旧民主党政権下での事業仕分けが槍玉にあげられたことがあったが、その旧民主党政権の悪政を安倍政権が糾弾する資格があるのかと問われれば、こと文部科学行政を見る限り到底資格はないと言わざるを得ない。かつて安倍晋三OECDの会合の中で、これからは基礎研究ではなく応用研究に傾注するなどと愚かな言葉を吐いたことがあったが、これは安倍が、これまで少ない予算の下で研究者の創意工夫により何とか辛うじて維持してきた基礎科学の研究を長期的にじわじわとぶっ潰しにかかりますと公言しているようなものである。

 

 有名な話だが、米国には大統領直属の科学顧問が存在しており、ノーベル賞級の超一流の科学者が中長期的視点から合衆国の科学政策を進言している。合衆国の長期的国益を向上するには基礎科学が重要であることを事あるごとに強調している。トルーマンアイゼンハワーもそしてクリントンもその進言に耳を傾けてきた。東京大学宇宙線研究所の施設スーパー・カミオカンデニュートリノに質量があることを観測結果から明らかにしたニュースに一早く飛びついたは、残念ながら我が国の内閣総理大臣でもなければ文部科学大臣でもなかった。事の重大性を認識し、MITでの演説の場でこのビッグ・ニュースを称賛した米国大統領ビル・クリントンだった。

 

 理科系出身か文科系出身かということではない。文科系出身でも理科系の知に関心を持つ者もいるし理科系出身でも文科系の知に関心を持つ者もいる。とりわけゼネラリストとして大局的判断を強いられる者が両者の知をもたないとなれば歪な判断しかできないことぐらい考えてもみれば当然であって、要は何が重要なのかについての大局的・長期的視点からの適切な判断力の有無である。日本の教育行政や科学行政について、こうした視点を持つ政策担当者がほとんど存在せず、近視眼的な視野しかない門外漢であるはずのコンサルタントがでかい面をして引っ掻き回し、我が国の国益を棄損して状況が今の日本の惨憺たる文部科学行政の姿であり、まずはこうしたアホどもを駆除することから始めなければ、我が国は亡国の一途を突き進むだろう。

 

 日本の文部科学行政は、故意に日本の国力を弱体化させる方向へと教育や学問研究の基礎部分を解体することを目的に様々な「改革」を行っているかのように見られる。大学入試における英語の民間業者委託の問題など、ほとんど枝葉末節の問題であるほどだ。近代化の過程における我々の先達の献身的な努力により我が国の高等教育が母国語で行うことが可能となった結果として、外国語に通じる必要に迫られることが他国と比べてなかったという事情もあるとはいえ、小学・中学・高校・大学を通じた語学教育にも関わらず英語すらまともに使用できない者が圧倒的なのは先進諸国でも日本くらいなものだから、日本の英語教育は明らかに失敗していくことははっきりしている。

 

 しかし、オーラル・コミュニケーション中心の教育に変更したからといって英語の総合力が向上するわけではない。週に一・二時間英会話教室に通ったからといって英会話が達者になるわけではないし、英文法や英語構文の知識がおざなりになっては、まともな英文を読解する力は身につかないし、日常会話以上の高度な英作文能力が向上するわけがない。そもそも、言語の構造が日本語と英語とでは異なっているわけだから、完全に英語の世界という海に浸りきっているという環境なら格別、そうでない限りは英語を外国語として対象化し、その構造上の差異に関して意識的な構えで学ばないことにはどうしようもない。その意味で、英文を精読していく作業はいずれかの段階で必要である。

 

 ただ、日本の語学の教科書に往々にして見られることだが、文法や構文の難易度と内容の幼稚さとは必ずしも相関しないのに、高校までの語学の教科書はその内容があまりに幼稚である。一般に第二外国語として学ぶことになる独語や仏語あるいは北京語の教科書も、大学生が読む文章の割には幼稚な内容のままである。その割には、日常的使用に必要な定型表現については教育しないというアベコベな状態が続いてきた。日常会話に必要な表現は概ね定型化されており、それらを条件反射のように引き出せるくらい何度も反復していれば自ずと身につく。定型化されているのは、皮肉なことに大学入試の出題パターンである。例えば東京大学の英語の試験は、まず初めに要旨要約問題がきて、次にちょっとした文法の問題や軽めの英文和訳やら英文構成の問題を出して総合問題へと移り、そこにヒアリング問題がプラスされるだけで、このパターンは一貫している。ヒアリングといっても、別段癖のある発音ではなく、しかもナチュラルスピードよりかは緩めの、ちょうどNHKの英語教育番組で流される程度のスピードである。CNNやBBC World Newsでも視聴する機会を設けて耳馴れしておけば十分である。

 

 ほとんどフォーマットが確立している典型がTOEICである。これでは、点のとり方だけに習熟した受験生が高得点を取る結果となり、果たして本当に英語の実力が身についているのか怪しい高得点者で溢れることになる。「男子、帝国大学に入る。一点一分も稼がざるべけむや!」という我妻栄のようなメンタリティでは困るのである。実際、東京大学の在籍者でまともに英語を使いこなせる人間がどれほどいるか観察してみればよい。一割もいないというのが実態だろう。ひょっとしたら1%程度かもしれない。学生のみならず教員ですらまともな英文を書ける者は少ないし、丁々発止英語で喧嘩できるほどの者となるとかなり少数になろう。国際学会でアワアワ何を言っているのかわからない日本人の大学教員が醜態を晒している光景が散見されるという。もっとも、語学力が拙かろうと、話す内容が高度であるならば尊敬を受けるわけだが、ごく一部の科学者を除き、特に文科系の分野であるにも関わらず、拙い語学力しかない者の話す内容は概してレベルが低い。

 

 そもそも、日本の大学入試そのものを抜本的に改めなければ、日本の大学のレベルは一層地盤沈下していくことだろう。世界の大学ランキングがどこまで実態を反映したものなのか怪しい面もあろうが、日本の大学のレベル低下は著しい。もはや、東京大学はアジア一位の座をシンガポールやシナの大学に明け渡している。しかも、東京大学京都大学の国際的なレベルは専ら理科系のとりわけ理学部の基礎研究が担ってきた。文科系の研究レベルは昔から低かった。これがさらにレベル低下するとなると、もはや日本は先進国とは言えないレベルの大学のお粗末さを呈することになるだろう。学生のレベル低下を嘆く教員が後を絶たない。しかし同時に、そう嘆く教員の多くもレベルが低いという笑うべき状況だ。高度成長期から人口増加に合わせて大学が雨後の筍のように林立し、教員のポストも大幅に増えて、大した業績もない者でもアカデミズムのポストにありつけた時代が出現したことで、学生のレベル低下より先に教員のレベル低下が起こった。

 

 日本の大学は、学生も教員もある特定の属性を持った者に集中しすぎている。学部はともかく、大学院までもが圧倒的に日本人で、世界の優秀な学生がなかなか寄りつかない。教員となるとなおさらで、当該大学の出身者が圧倒的多数を占め、男性教員が過剰に多く、しかも日本人教員ばかりである。しかも、社会人を経験してきた教員も少なく、いたとしても博士の学位をもたない学問研究の資質のあることを証明する制度的担保に欠ける「天下り」教員ないしはタレント教員、ひどいケースだと落選議員の腰掛ポストと化している例もある。無学無能な教員を数十人雇うくらいならば世界的な業績のある真の学者を高給で雇い入れた方が断然に大学のレベル向上に資する。なんでもかでもグローバル化することには反対だが、こと大学以上の高等教育に関してはグローバル化する必要があろう。極端に言えば、東京大学の教員の半数は外国籍、大学院生も半数は外国籍というくらいでも構わない。それで東京大学のレベルが向上するならば、これは結果的に国益に資することになろう。

 

 業績に乏しく、ただひたすら政府の提灯持ちを務めるだけの御用学者。同じく業績に乏しく、ただひたすら日本批判を繰り返しす評論活動しかしていない左翼学者。こういった連中に飯を食わせる余裕はない。まっとうに学問研究に勤しみ、相応の業績を残している学者が正当に評価され、その努力が報われるような制度設計を構築すること。国内だけでしか通用しない研究レベルの低い教員があまりにも多すぎる現状をぶち壊し、能力次第でどこの国の研究者であろうと厚遇を以って迎え入れる体制を整備すること。思い切った変革をしないことには、日本の基礎学問のレベルは見るも無残な結果に失墜することになろう。

 

 もちろん、大学の制度を変革するだけでは十分ではない。日本独特の奇妙な企業文化を変えることが重要だ。特に大学(特に学部)を卒業見込みの学生が一斉に就職活動(いわゆる「シューカツ」)をし、企業も新卒一括採用をする奇妙なビジネス慣習は弊害である。これは就活生だけに当てはまるのではなく、純粋培養型の研究者にも言えるだろう。彼ら彼女らは就活生と同様、何の迷いも冒険もなく一目散に大学院に進学する。まるで、できるだけ若いことが優秀さの証であると言わんばかりに。その意味では就活生と全く同様である。一つの専攻についての知にしか関心を持たず、幅広く学ぼうともする姿勢にも欠ける。教養のない大学教員で満ち溢れているのもその証左。

 

 蓮實重彦が述べていたように、日本社会には「グレる」ことへの不当な評価が蔓延している。欧米の学者には、例えば中世イタリア文学を専攻していた者が高分子化学の専攻へと移るなど、異なる学問的知を周遊してから自らの研究の中心となるべき専攻を見定めるといった「グレる」体験に恵まれた教員が結構いるのに対して、日本では画一的すぎると。日本の大学教員も、結局は大企業に奉職してそこで安定することが優秀な者の歩むスタイルであるとの暗黙の了解を共有しているのである。これでは中々クリエイティブな仕事は生まれにくいだろう。