shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

経営学についての雑感

第二次ベビーブーム世代が18歳になる頃を見計らうかのように、1990年代前半になされた大学設置基準の大綱化の影響で雨後の筍のように大学が乱立することになり、とにもかくにも大学進学することが望ましいという故のない妄想が日本社会を覆って行った。工業高校・商業高校・農業高校・水産高校が軒並み閉鎖されて行き、大学進学を視野に入れた全日制普通科高校ばかりになっていった。その傾向の直接のあおりを受けたのが、高等専門学校(高専)ではないだろうか。かつては、日本経済を支える生産ラインを担う有為な人材の供給源の一つでもあった地方の高専のレベル低下は著しく、今や地方の中学生の成績上位層が積極的に選択する進路とは言えなくなったと聞く。更に、共通一次試験の後継たる大学入試センター試験が定着したことや、大学受験予備校主催の模擬試験で作られた偏差値による一元的序列化などの事情が重なり、地方の国立大学のレベル低下に拍車がかかり、社会全体の東京一極集中化の流れと歩調を合わせるかのように、東京の大学に人材が集中して行った。日本経済の長期停滞が少子化の流れを加速させるに連れて、乱立された私立大学の中は、学生獲得のために受けのよさそうな流行を意識した名前の学部を創設して生き残りを図ろうと「改革」に邁進した。文部科学省の方針も手伝って、「総合」なんちゃら、「グローバル」なんちゃら、「ビジネス」なんちゃら、「フロンティア」なんちゃら、「メディア」なんちゃらなど一見したところ何を学ぶのか不明な名前の学部が量産される一方、理学部、医学部、工学部、農学部、薬学部、文学部、法学部など「一文字学部」の新設が抑制されていった。

 

そもそも日本の大学に進学したからといって得られるものは少ない。ごく一部の研究者・教育者を除き、「教養人」・「知識人」と言える大学教員は数少ない。のみならず、専門分野での業績すらさしたるものが存在しない者も目立つ。学生も学生で、教員のレベルに比例して総じて低いレベルに止まる。「学生のレベルが低い」と嘆く教員もいるが、それは教員自身のレベルの反映つまりは自己を写した鏡であることに気がつきもしない。教員のレベルが高いにもかかわらず学生だけが低レベルなどいうことは通常考えられない。そうした従来の学部の中で、まだ辛うじて人気を得ているのが経営学部かもしれない。商学経営学は厳密に言って同じではないものの、既存の商学部経営学部やら現代経営学部やらといった名称に模様替えしくといった光景も見られた。米国を真似して、ビジネス・スクールといった専門職大学院も矢継ぎ早に創設されるなど、経営学部系の部門が拡充されていった。

 

こうした状況について、当時東京大学総長だった蓮實重彦は、「ビジネス・スクールよりも無用の学を」と主張していた。それもそのはず、当時はビジネス・スクールの本場である米国では、ビジネス・スクール内から今日のビジネス・スクールの在り方を疑問視する声が出始めており、『ハーバード・ビジネス・レビュー』でもビジネス・スクールの弊害を論じる論文すら掲載されたほどだったわけだから、日本にもビジネス・スクールをという多数の声に対して蓮實が異論を挟みたくなるのも当然だろう。この点でも蓮實重彦の慧眼が際立つ。蓮實重彦東京大学総長の職に就いていた頃、あくまで裁量の範囲内として許さる限りで基礎科学の研究、中でもスーパーカミオカンデを利用したニュートリノの観測といった素粒子物理学に思い入れ深く関与したという。この点でも、何が基礎科学において人類史的偉業につながる研究なのかを朧気ながらでも見抜く蓮實の眼力を伺える。更には、東京大学の教員スタッフの偏頗性を問題視し、性別による差別、年齢による差別、国籍による差別、出身校による差別を是正する必要があることを強調し、東京大学が真の「国際化」を果たすには何が課題であるかも理解していた。「グローバル人材」(「火星人」と同じで、そんな奴を僕は未だに見たことがないが)がどうのこうのと言っている前総長よりも遥かに世界的な視野を持っていたのだ。

 

蓮實重彦の批判は、具体的状況に応じた試行錯誤を繰り返しながら鍛えられていく思考を蔑ろにし、リスクを自ら負うことなく口先ばかりの観念論に戯れてそのツケを他人に転嫁するだけの者がMBA取得者に往々にして見られる実状を踏まえた批判であった。したがって、その本質は何もビジネス・スクールや経営学部だけに限られた問題ではなく、そうでない分野に従事する者にも等しく当てはまるわけだから、ここで「無用の学」とされた分野だからといって批判の射程から外れていると考えるのは早計に過ぎるということになろう。これは、柄谷行人との共著『闘争のエチカ』(河出書房新社)の中にわずかながら出てくる「文学部」批判からも推量されることである。もちろん、この対談がなされた時期は蓮實重彦東京大学教養学部長に就いたばかりの時期に該当するので、これまで学内ヒエラルキーの上で本郷よりも格下と見られていた駒場の教員としての対抗意識から出たものと言えなくもないが、「世界的に見て、文学部というのは終わっている」というような文句は、本郷と駒場との対抗関係という学内政治の問題だけには還元されないような問題意識から出たものであろうと思われる。蓮實が人文系学問の危機という意識を持っていたと見ることもできないわけではない。

 

経営学という学問が数学や物理学のような学問と比較してどの程度精緻化されているのかと言えば、残念ながらきわめて怪しい。ジェンダー研究やらポスト・コロニアル研究といった社会学系統の分野から精神分析学に至るまで、もはや「政治プロパガンダ」や「似非科学」と化しているインチキ学問よりかは多少はマシかも知れないといった程度だ(といっても、どんぐりの背比べかも知れないが)。特に、日本の大学の経営学部で経営学を学んだと言っても、その内実はアド・ホックな知識を継ぎ接ぎして内容空疎な「処方箋」を後知恵として声高に叫ぶだけで、自らはその言説について何の責任も負わない「お気楽コンサルタント」を増産することにしか貢献しなかったというのは言い過ぎだろうか。コンサルタントやタレント化している大学教師といった「身銭を切らず」ツケだけを他人に負わせるいい加減な連中がデカい顔してメディアに躍り出る。もちろん、彼ら彼女らが経営学部出身と言いたいわけではない。ただ、いかにも「経営学部的」という印象を持ってしまうわけだ。この種の連中に組織の運営を任せると、やれ「これからの組織はボトムアップ型だ」と言っていた舌の根乾かぬうちに、やれ「強力なリーダーシップに牽引されたトップダウン型に変えて行かねばならない」などと言質を変えて組織を引っ掻き回すだけして「後はよろしく」とばかりに高額報酬を要求してトンズラする。残されたのは、目も当てられぬくらいボロボロに解体された組織だけ。「企業再生のエキスパート」とか調子のいいことを言っても、やっていることはアホでもできるリストラという名の首切り。成功でも何でもないことを成功と称して実績に数え入れて宣伝する一方、ぶっ潰したケースは書かない。

 

経営学と一口に言っても様々な分野があるので、中には企業経営に直接資する内容もあろうし、間接的な貢献をも含めると、全く役に立たないとまで言うのは些か乱暴かもしれないが、経営学の書籍や論文を読んでもさしたる知的刺激を受けたことが皆無なので、経営学に対する懐疑の念が人一倍強いせいかも知れない。大したことを言っているわけでもないのに、やたらと派手なキャッチフレーズをぶち上げるのも経営学の特徴の一つかもしれない。どう見ても、広告代理店に就職した方がいいという人が経営学者を名乗っていることもある。その上、いろんな分野から中途半端な理解のままつまみ食いして持ってくるので、言っている本人も何言っているかわからなくなって錯乱していくという光景が見られるのも特徴の一つだろうか。経営学を専攻する大学生で、もし中途半端にしか経営学を齧る程度でやり過ごすというなら、いっそのことホストクラブにでも飛び込んで実地に稼ぎ方なり店舗経営がどうなっているのか、その資金管理や組織運営の実態を体験した方が、経営学そのものではないにせよ現実の経営の一端を覗き見ることができるかも知れない。

 

ビジネス・スクールといっても、米国のおおよそ8つの大学のビジネススクールは比較的マトモな方で、日本のなんちゃってビジネス・スクールのようではない。米国のビジネス・スクールが素晴らしいというわけではないが、少なくとも教員は相当な労力を割いて授業の準備をしていることは確かで、たとえ大人数の授業であっても受講する学生の顔や名前や国籍についてはもとより、当該学生の出自や背景まで丹念に資料を読んで記憶するまで全員の情報を頭に叩き込んで授業に臨む。日本の大学はとりあえず大学を卒業したという学歴を得るための機関と化しているので、学士の学位を取る以外そこで何かを得ようという期待は持てない。最近ではMITが、たとえ大学や高校を卒業していない者であっても優秀と認められる者に対して大学院入学の門戸を開くとの方針を打ち出した。これから大学ないし大学院に進む予定の者は、単に学歴を得る目的で入学する者が圧倒的多数を占める学生と低レベルな教員の多い日本の大学など相手にせず、欧米圏の比較的定評のある大学や大学院に進むことが望ましいのではないだろうか。

 

ビジネス・スクールでは狭義の組織管理論はもちろんのこと、ミクロなレベルでの具体的なリスクの総括的管理や計量的分析といった技術的側面に不案内な者にとっては役に立つ授業も中にはあるし、コースの取引費用理論など盛んに応用されて知らないわけにはいかない理論(といっても、この理論の弊害も目立ってきていると思われるが)も学べる。何より人脈づくりに好都合という利点もある。それでも、高額な授業料に見合っているかはわからない。しかし、教員は可能な限りハイレベルな授業に努めて懸命であることは、日本の大学教員も多少は見習ってもいいのではないか。日本の大学教員の大半は、小金程度の給料であろうと、その給料に見合った研究業績と教育を残しているのか怪しいわけだから。日本では今もなお、ジェームズ・コリンズの『ビジョナリー・カンパニー』やマイケル・ポーターの『競争の戦略』あるいはジェイ・バーニーの『企業戦略論』やコトラーマーケティング論が持て囃されが(というか、ピーター・ドラッガーがベストセラーになるような奇特な国なんで、さして驚きはないが。授業で二回ほどその名が登場したけど、それ以外お目にかからない。それくらい忘れられた経営学者なのだが、日本の場合、書店の経営学コーナーに行けば、MBAなんちゃらと題した胡散臭い本と並んでドラッガーの著作がわんさか陳列されている)、確かにそれが場合によっては役に立つこともないわけではない。

 

結論から言わせてもらうと、経営学の研究書ならまだしも、一般のビジネス書となるとまず間違いなくロクなものではなく、せいぜい3分読めばわかるものばかりで、しかもアホなことしか書いていないので、この類のビジネス書の愛読者を信用しない方がいい。こんなの読むのなら、まだエッチするなりシコっとくなりした方が時間を無駄にしない。ビジネスパーソンにこそお薦めしたいのは、ボエティウスのDe consolatione philosophiae(哲学の慰め)だ。邦訳はないし原文はラテン語だけど、幸いも英訳がある。『羅和辞典』やLatin-English Dictionaryなどの辞書ありでも数ページ読むのに小一時間要してしまう拙い語学力しかない僕は、あくまで英訳で読んだに過ぎないが、直接ビジネスに資するか否かというしょーもない次元ではなく、獄中で書かれたこの碩学中の碩学の著した哲学的古典から得られる精神的糧は、そこらのビジネス書なんぞからは得られない。

 

米国の場合、多少事情が異なるが、いずれにせよ僕にとっては、マクロ組織論やら経営戦略論やら事業ポートフォリオ論やらSCP理論やらその他なんちゃら理論やら、この種の「後知恵的」あるいは「こじつけ」の類の授業には一秒も感心させられたものはなかったし(そのほとんどは、「理論」という名に値しない)、ある意味古典的となっているファイブ・フォース分析だのバリュー・チェーンなどの発想もSo what?としか思わなかったが、この種の議論で「優良」と誉めあげられた企業への投資だけは絶対にするまいという反面教師として役に立った。しかし、そうした類いの大風呂敷を広げたような内容の知識は、書店で著作を立ち読みするなり(ポーターの『競争の戦略』にしてもせいぜい30分もあればその内容を頭に叩き込めるだろう。『競争戦略論Ⅰ、Ⅱ』(ダイヤモンド社)を見たら、おおよそ察しがつくように、そもそも著者自身の写真を表紙に載せている著作にロクなものはないの。コリンズの『ビジョナリー・カンパニー』なんか使い道に迷って今では鍋敷きにしている)、図書館でジャーナル掲載の論文を一瞥すれば得られる。そうではなく、広範囲にわたる数値解析手法や数理ファイナンスの基本を徹底する方がいいだろう。