shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

唯物史観の原像

 日本はマルクス研究が昔から盛んで、研究者の層の厚さでは、かつての新カント派研究と類似して、本国よりも日本の方が勝っているという珍妙な現象が見られる。これまでマルクスの入門書として数多の本が量産され続けてきたが、唯物史観についてその概要を知りたければ、特に廣松渉唯物史観の原像-その発想と射程』(三一新書)という三部構成の新書サイズの本がお勧めである。

 

 マルクス主義に関する入門書は多いようで、こと唯物史観そのものについて論述した書物となると意外に少ないという実情を踏まえると、この廣松の書は貴重である。また、独自の廣松哲学を前面に出して立論することは控え、極力マルクス・エンゲルスのテクストに多くを語らせるという方法を採っているので、解釈的私見を期待している読者にとってはやや不満が残る書き方になっているかも知れないが、逆に廣松哲学の引力に引きずられがちな他のマルクス関係の書とは違った趣のものを期待している者にとっては適切な書であることは間違いない。

 

 ここ数年に出されたマルクス関係の新書では、熊野純彦マルクス資本論の哲学』(岩波新書)もお勧めである。もっとも熊野はマルクス研究者でもなければ、おそらくマルクス主義者ですらない。ドイツやフランスの近現代哲学や倫理学を主として研究対象にする研究者であるが、制度上はともかく(熊野純彦は東大本郷の倫理学出身なので)事実上の廣松渉の「弟子」筋にあたる。

 

 主たる研究対象としてマルクスを扱ったことはなかったが、廣松の死後二十年ほど経過して『マルクス資本論の思考』(せりか書房)を出版した。この書は400字詰原稿用紙にして約2000枚にも上る大著で、哲学者がマルクス資本論』の論域を広範に取り扱った著作として異例な本でもあったわけだが、新書として出された『マルクス資本論の哲学』は、その内容を縮約した内容にもなっており、『資本論』の行論を順次追いながら解説していくような格好ともなっている。

 

 前著でも論じられていたマルクスから取り出せる時間論が特徴として際立つ点も共通している。多分に宇野学派に関する記述が現れていた前著と違って、新書ではこの辺りの議論はバッサリ端折った書き物になっている。おそらくは、マルクスのテクストに手を伸ばしたことのない者あるいはマルクスのテクストに手を伸ばしつつも途中で挫折した者に対して直接マルクスのテクストに触れて考えて欲しいという思いで書かれた道先案内としても便利な著作である。

 

 廣松には同じく新書で『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書)がある。こちらの方が『唯物史観の原像』よりは読みやすく出版された時期も新しい。ところが、一般の読者は『ドイツ・イデオロギー』の編纂問題においてリャザーノフ版やらアドラツキー版がどうのこうのという議論を冒頭で読まされるのは退屈であろうし、そもそも唯物史観というものがどういう内容のものなのかに関しては意外に詳しく語られているとまでは言えない。

 

 この点で『唯物史観の原像』は、マルクスの社会存在論や「疎外論から物象化論へ」というテーゼの意味、未来のゲマインシャフトリッヒな社会構想の説明など唯物史観の理解に必要不可欠な内容が網羅されている名著である。確かに文体はあいかわらず硬い文体であるといえるが、主著である『存在と意味-事的世界観の定礎』(岩波書店)ような晦渋な文体ではなく、初期の『世界の共同主観的存在構造』(岩波文庫)や『マルクス主義の地平』(勁草書房)あるいは『マルクス主義の理路』(勁草書房)における勢いある文体が読み易いといえるので、たとえマルクス主義に無縁の者であっても普通に呼んで理解できる内容であると思われる。

 

 残念ながら、この『唯物史観の原像』は絶版となっている。岩波書店から出された「廣松渉著作集(全16巻)」では第九巻に収録されているが(ちなみに『今こそマルクスを読み返す』は著作集には収録されていない。河合教育研究所の出版助成があるとはいえ、廣松の全集を編むとなると更なる資金が必要となる。そこで、できるだけ入門書や新書として出された著作については著作集から省く方針を採りたいところ、著作集の編集委員会はおそらく、たとえ新書という形式ながらも内容的に名著として扱われるべきとの判断から、『唯物史観の原像』を収録したのだと思われる。『事的世界観への前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相』所収の各論文もバラバラに著作集の各巻に配列しなおされるなど、できるだけ多くならないよう苦心している跡が垣間見れる)、やはり単行本としての方が扱い易いだろう。ぜひこの『唯物史観の原像』を復刊してもらいたいのである。

 

 『唯物史観の原像』は、「はしがき」と「あとがき」を挟んで三章構成からなる。第一章は「唯物史観の確立過程」、第二章は「唯物史観の根本発想」、第三章は「唯物史観と革命思想」で、各章がそれぞれ更に三節で構成される。しかも、他の廣松の書と同様、文字数も完全に揃えるなど僕から言わせれば「どうでもいいこと」に拘る廣松の潔癖症が垣間見えるところも面白い。具体的には次のようである。

 

第一章 唯物史観の確立過程

 第一節 哲学的人間学から社会的存在論

 第二節 市民社会の「経済哲学」的分析へ

 第三節 疎外論から「物象化論」の地平へ

第二章 唯物史観の根本発想

 第一節 唯物史観の基軸的発想と基礎的範疇

 第二節 階級闘争史観の基礎づけと歴史法則

 第三節 社会の生産的協働聨関態と階級国家

第三章 唯物史観と革命思想

 第一節 ユートピアから「科学的社会主義」へ

 第二節 革命主体の形成と大衆運動の物象化

 第三節 共産主義革命の人間=存在論的射程

ざっとこんな感じである。

 

 第一章は、その章題の通り、マルクス主義の思想的な構えをなす唯物史観の基本的な発想及び思想内容の概括的整理の章であり、そこではマルクスエンゲルスの初期から後期にかけての飛躍的な発展過程を無視することができない点を確認しつつ、初期と後期の思想にいかなるつながりがあり、どのような違いがあるのかを記述し、初期に見られた疎外論を前提とする哲学的人間論が後期の物象化論に基づく社会的存在論に発展していく中で唯物史観が形成されていった点が、主としてヘーゲル左派の論者との対比から明らかにされていく。この点の詳しい分析が『マルクス主義の成立過程』や『エンゲルス論-その思想形成過程』において論じられている箇所に該当する。

 

 廣松は、その物象化論を展開するにあたってことあるごとにヘーゲル左派との対質を試みつつ論じているように、廣松は相当ヘーゲル左派のテクストを読み込んでおり、この部分を無視して廣松によるマルクス主義解釈はおろか広義の廣松哲学を理解することはできない。

 

 最近の廣松哲学研究の書である渡辺恭彦廣松渉の思想-内在のダイナミズム』(みすず書房)が、廣松の残した広範囲な領域にわたるテクスト全体を鳥瞰した仕事であるにも関わらずなお物足りなさが残るのは、廣松の科学哲学方面での仕事ととともにこのヘーゲル左派研究についての言及が希薄であるからである。

 

 第二章は、唯物史観を形成する基本的な発想とそれにまつわる哲学的命題について確認するとともに、唯物史観が単なる階級闘争史観として片づけられる類の歴史観に還元されるものではなく、人間・自然を全一的に包含する世界観的な構えとなっていることを見定める。第三章は、唯物史観と革命理論との関連を論じながら、ゲゼルシャフトリッヒに対置される真にゲマインシャフトリッヒな共同体としての共産主義社会の展望を見る。