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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

歴史の涙-昭和20年8月14日

 令和2(2020)年8月15日、終戦詔勅玉音放送を通じて国民に向けて発せられてからちょうど75年目を迎える。わが国の大方の認識では、終戦の日といえば終戦記念日とされる8月15日ということになっているが、少なくとも米国では、大東亜戦争終結の日といえば、ミズーリ号甲板上にて外務大臣重光葵日本国全権が降伏文書に署名した9月2日ということになっている。もちろん、わが国大多数の国民の認識が端的に誤りというわけではない。当事者双方の立場が異なっているのだから、受け取り方に相違があってもおかしくはない。降伏を認めるポツダム宣言受諾の意思を内外に表明した8月15日に国民が大東亜戦争敗北という事実を認識したわけなので、この日を以って組織的な戦争遂行意思が消滅したという意味において、「戦争の終わり」=「終戦の日」と認識するのは不合理なことではないだろう。

 

  今年は、COVID-19の感染拡大防止のために、先月中ごろの靖国神社での「みたままつり」も中止になったと聞く。終戦記念日靖国神社は例年なら大勢の参拝者で激しい人混みとなるが、今年はどうなるのやら。父方の曽祖父の兄弟(確か、海軍兵学校65期か66期だったと思うが)が靖国神社に祀られているので、命日の月に昇殿参拝することはもとより、春と秋の例大祭そして終戦記念日への拝殿前での一般参拝を日本にいる時は欠かさず行ってきたが、今年はそれもできそうにない。

 

  この日の米国での報道を見ると、平成と令和の御代しか知らない僕のような人間でさえ悔しさと同時に怒りさえ込み上げてくるのは、そのレイシズム剥き出しの露骨な日本人像のためである。戦前の日本が国際社会に向けていくら人種の平等を訴えても、欧米列強がその主張をことごとく撥ねつけてきた歴史が想像される。ニューヨーク・タイムズのバックナンバーを調べたらわかることだが、日本人のことを表すイラストは得体の知れないエイリアンのような巨大な怪物であり、「今後この日本人という名のエイリアンが再起できぬよう徹底的にその牙を抜かなければ行けない」というのである。白人であるドイツ人に対しては、「再び文明国として再興する手助けをしなければならない」といった論調なのである。これを初めて目にした瞬間は、頭に血が上って「アメ公にも、二発原爆おめみえしてやれ!」と思ったものだが、もちろんそんなことできないし、絶対やっちゃあダメだ。ともあれ、気持ちの上では「やられたらやり返す」というのは人間のごく普通の感情であって、それを実行に移さなくとも、心のどこかでそういう気持ちを失ってもまずい。

 

 大東亜戦争敗戦についての反省と教訓は、もちろん負ける戦をしてしまったことや戦禍によって多数の死傷者を生んでしまったこと、あるいは二度とこのような戦禍を招かぬよう最善を尽くすことも含まれよう。しかし、それだけではなく、仮に心ならずも戦争に至ってしまえば、「今度は必ず負けない戦にしてみせる」ということも含まれていなければなるまい。

 

 連合国の勝利は、アジア・アフリカ諸国にとって何の解放をも意味したわけではなかった。むしろ、アジアやアフリカを植民地にすることは欧州諸国の権利であるとばかりに日本の敗戦後にアジアの再植民地化に乗り出したことからもわかるように、連中は単に先発的な帝国主義国でしかなかった。英蘭は自国だけでは大日本帝国陸海軍を前にして手も足も出ずに敗走するより他なかったわけだが(マレー沖海戦では、英国が誇る東洋艦隊が全滅し、プリンス・オブ・ウェールズが海の藻屑と化したという報を聞いたウィンストン・チャーチルは大泣きしたらしい)、今も旧日本軍の行動に文句をつけている者が僅かにいる。一部捕虜の待遇について問題があったことは認めるにしても、英蘭にとやかく言われる筋合いのものではないだろう。英蘭がインドやジャワなどで何をしていたかを考えてみればいい。もちろん旧日本軍の振る舞いが決して誉められるような態様ではなかったことも認めるが、少なくとも英蘭といった旧宗主国帝国主義者から非難される言われはない。

 

 昭和16年からの大東亜戦争が、後にダグラス・マッカーサーも認めざるを得なかった通り、主として安全保障上の必要に迫れての自存自衛のための戦争であったとしても、開戦に至る過程全体を考えると、我が国の振舞いの中には後発的帝国主義国家としての側面を持っていたことは否定できず、大局的には先発的帝国主義諸国と後発的帝国主義諸国との権益争いの末の戦争でもあったと言える。当時は、列挙諸国に共通して見られた振舞いであったとはいえ、大正4(1915)年の対華二十一か条の要求は中華民国に対するあからさまな覇権主義的恫喝であって、これに対して中華ナショナリズムが湧き起こり日貨排斥運動へと進展していくのも無理ないことであった。特に、清朝を打倒して中華民国を立ち上げた面々が日本の明治維新に倣えと親日的な姿勢を示していたのに、この要求によって反日的な姿勢に転嫁していった過程を見ると、日本人として申し訳なさに駆られる。今度は逆に、中華民国に同情し支援すら惜しまなかった日本人の態度も日に日に増してくる中華ナショナリズムに基づいた日貨排斥運動に対する反発から、華人蔑視へと変容していった。この流れを加速していった契機が、1919年の五・四運動である。独善的な善悪二元論で物事を割り切る傾向にある日本の左翼はこの運動を単純に礼賛するわけだけど、物事そう単純なものではないということに理解が及ばないらしい。

 

 既に、日本の敗北が濃厚であることを認識していたにも関わらず、終戦後の対日政策を米国有利に進めるために、旧ソ連の対日参戦の前に早期終結を図るという目的だけでなく(ヤルタ密約により、米国は旧ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して満洲国及び我が国に侵略することを半ば承諾していた。コミンテルン日本支部としてモスクワの指令に基づきスターリンの意向に適うよう活動してきたのが日本共産党である。「侵略戦争に一貫して反対してきた平和の党」と威張っているが、ちゃんちゃらおかしい。スターリンを利するために活動していたに過ぎなかった。戦後もなお、虚偽の通報によって呼び寄せた巡査を十数人の共産党員が鉄パイプで撲殺した練馬事件を始め、数々の殺人事件や警察襲撃事件あるいは放火事件といった無差別テロを起こし続けきた集団である。こうした過去の行いを徳田球一の一派だけに責任をなすりつけ、「51年綱領」に則った党の正式な路線であったことを認めようとせず党史を捏造するばかり。「ソフト路線」の装いを凝らしてる現在でも、なお暴力革命路線を最終的には放棄していないと警察庁は警戒しているし、公安調査庁日本共産党破壊活動防止法に基づく調査対象団体であるとしている。要するに、我が国の秩序を暴力的に破壊しようとする団体であるというのが、日本政府の一貫した認識なのであり、このような団体が国会に議席を有していること自体が大問題なのである)、新型爆弾の破壊力を見るための実験として、米国は広島と長崎に原爆投下した。

 

 果たして、相手がヨーロッパ人ならばどうだっただろうか。おそらく、原爆投下は憚られていたのではないだろうか。ハリー・トルーマンフランクリン・ルーズベルトも筋金入りの人種差別主義者で白人至上主義者だったので、この想像は必ずしも的外れとは言えまい。広島に投下した後、間髪入れずに長崎にも投下したのも、ガン・タイプとインプロージョン・タイプ双方のタイプの原爆を試したかったからだろう。

 

 意図的に非戦闘員を狙って大量殺戮する行為はもちろん違法であって、もし極東軍事裁判がフェアな裁判であろうと企図していたなら、広島や長崎の住人を大量殺戮した行為や東京や大阪といった大都市住人の頭上に爆弾の雨を降らせた都市空襲によって大量殺戮した行為につき米国も裁かれるべきであったが(旧日本軍も、当時中華民国重慶を爆撃して非戦闘員の殺人をやらかしたこともあるけど)、極東軍事裁判東京法廷では、米国側の当事者が裁かれることはなく、専ら連合国に都合よく事実認定が行われ、まともな弁明の機会も与えられず、法の不遡及原則を無視した事後法による処罰というおよそ近代法における裁判とは言い難い共産主義者の常套とする「人民裁判」擬きのような茶番が行われた。いかに日本側主張がさしたる理由もなく提出証拠が問答無用に却下されたかは、『東京裁判却下未提出弁護側資料』(国書刊行会)が示すところである(それをまとめたものとして小堀桂一郎東京裁判 日本の弁明』(講談社学術文庫)があり、ここには米国連邦議会上院の外交軍事合同委員会における公聴会でのマッカーサーの証言も原文で収録されている)。

 

 戦前の傲慢が戦後の卑屈へと極端に変わり、戦前日本の全否定へと変節した「知識人」が左翼人脈を形成して我が国の世論を中共旧ソ連あるいは北鮮を益する方向へと誘導してきたことは既に知られるところとなったが、体制の中枢も同じく、似たような変節人士が大量に棲息していた(戦後の日本は、あろうことか、東京大空襲の責任者カーチス・ルメイに対して勲章まで授与する始末なのだから)。米国は日本のことを完全に舐めきっていて、特に核についての情緒的な対応を上手く利用して日本国民の感情を手なずけようとしてきた。その典型がオバマ政権だった。

 

 バラク・オバマが広島の平和記念公園を訪れ被爆者名簿が収められている慰霊碑に献花し被爆者団体の代表と抱擁を交わしたことを美談として、日本国民は諸手を挙げて歓迎した。ルース大使が記念式典に参列したことも含めてオバマ政権は「核なき世界」に向けて懸命に頑張っているという虚偽のイメージを信じて、朝日新聞から産経新聞まで揃ってこれを称賛した。核兵器の直接的被害を受けた国民として核の問題について情緒的な反応になってしまうのは自然なことであって、それ自体責められるべきことではないが、こうした情緒的反応でしか返せない日本のあり方を、米国は完全にバカにしているという事実を直視した方がいいかもしれない。

 

 それは、バラク・オバマという人物がどういう人物だったのかを調べてみればわかるはずだ。オバマは、「核なき世界」に向けて積極的にそのための行動を起こすことを世界に宣言してノーベル平和賞を受賞し、広島まで赴いて被爆者団体の代表者と抱擁を交わすなど、わざとらしい演出によりさも自身が「平和の使者」であるかの装いを凝らしていたが、舌の根乾かぬうちに今後20年間の新型の核兵器開発に1兆ドル以上の予算をつける決定を下しているのである。

 

 なぜ、こうした白々しい演出が施されたのか。それはちょうど、北朝鮮のミサイル開発と核開発が進展し、日本にとって一段と安全保障環境が深刻化した時期と重なる。中朝露といった核保有国を周囲に持つ日本にとって事態は相当深刻になっており予断を許さない状況に立ち至っていること、そして有事の際に日米安全保障条約に基づく米国の行動が確証できるか否かわからない状況からも、冷静に判断すれば、我が国の防衛において核保有の選択肢が議論されるに違いないだろうと安全保障の専門家ならば当然に予想されたからである。そこで、日本の「反核勢力」(その全てとは言わないが、左翼イデオロギーから「反核」を主張する勢力は、これまで西側諸国の核は汚い核であるのに対して、東側諸国の核は綺麗な核だと主張して憚らなかったし、今も人民解放軍のミサイル約2000発が日本に照準を合わせているというのに、中共に対してはほとんど批判をしないままである。要するに、「反核」とは表向きの看板であって、彼ら彼女らの本音は、中共を支援するために日本の国力を落とすことにある)を支援することで国内世論に楔を打ち込んだというのが真相だろう。

 

 米国は日本をプロテクトリーとしておくという戦後一貫していた対日政策の基本を崩したくないので、ことあるごとに日本の核武装の萌芽を潰してきた。有名なのは、1960・70年代に日本と西ドイツとの間で検討された核武装の議論を米国が封じてきたことだろう。日本が核不拡散条約の批准を渋り続けてきたのは、何とか核武装の選択肢を確保しておこうという思惑があったからである。この時期は、まだ戦前の教育を受けた官僚が中心であったから、こんなもの批准してしまったら今後の防衛政策の足かせになり、米軍依存から一層抜け出せなくなると考えた骨のある官僚もいたというわけだ。この辺の事情は、外務次官や駐米大使を務めた村田良平による回顧録『村田良平回想録』(ミネルヴァ書房)の下巻に詳しい。

 

 以後、ますます対米従属に拍車がかかっていく。そりゃ当然である。安全保障の要を米国に依存しておいて対米自立などできるわけない相談だ。対米従属を批判する左翼は安全保障の必要性を見て見ないふりをしてひたすら憲法九条をお題目の如く唱え続けるだけであった一方、自民党自民党で、憲法九条第二項を素直に読めば明らかに武装解除条項であるのに、自衛のための必要最小限度の実力部隊を保持することは憲法に違反しないと苦肉の策で誤魔化し続けてきた。もちろん、現実に自衛隊すら保持せずして安全保障を図ることなど不可能だから、改憲が難しい状況下での苦し紛れの「方便」だったことは理解できる。現に、我が国が独立を果たし必要な防衛力を備える以前に、韓国はドサクサ紛れに竹島を不法占拠するに至ったわけである。その際、数十人の漁民が虐殺され、また大量の漁船が拿捕されて人質に取られた事件をよもや忘れたわけではあるまい。島根県民の中には、この事件に関して韓国に憎しみを抱き続けている人もいるのだ。本来ならば、明らかな我が国領土に対する侵略行動をとった韓国に対して自衛行動を発動してもおかしくはなかったのに、この時期は日本の主権回復もままならず防衛力もなかった。この点においても、韓国の卑怯ぶりがわかろう。事態を漫然と放置し続けてきた日本政府は、いまだに竹島奪還のための具体的行動を起こしていない(不法占拠状態が数十年も継続している状態となっては、たとえ軍事的には竹島奪還が容易であったとしても、政治的に軍事オプションはとれない)。

 

 米国は、かつての敵国である日本とドイツが復活して再び米国の脅威となることを封じておくために、自主的・自立的な防衛能力を持つことを決して容認しなかった。その代わり、安全保障条約に基づく防衛義務を設けることで両国をなだめようとしてきた。北朝鮮などの脅威を前にして、再びそうした議論が巻き起こらぬよう米国はそれを封じる手に出たといってよい。それがオバマの態度にも現れ、これまで被爆者団体に見向きもしなかった米国の態度の豹変ぶりにも現れている。

 

 NPT体制に入ってしまった現在の日本が、今更この体制から離脱することが最良の選択であるのか否かは議論のしどころだが、よほどの覚悟がなかれば核武装の選択をとるとの決断はしにくいだろう。核不拡散体制からの離脱は政治的・経済的リスクが大きすぎるという意見もあろうし、核兵器は水鉄砲のような玩具ではないのだから安易に弄ぶ議論や早急な判断は慎まれるべきで、デリケートな被爆者の心情にも慮った丁寧な議論となるべきだ。

 

 しかし、我が国を取り巻く安全保障環境は日増しに厳しい状況になっていることも確かだ。ケネス・ウォルツやジョン・ミアシャイマーなどリアリズムに立脚する米国の国際政治学者や安全保障の専門家ならば、日本は当然核武装の選択肢を視野に入れた防衛政策への転換を図らざるを得ないと考えている。彼らは別に好戦的な主張をしていないし、好戦的な気質の人物ですらない。むしろ、その逆である。彼らはベトナム戦争にも反対したしイラク戦争にも反対してきた。「中東の民主化」と称して中東に介入することにも反対してきた。米国のGDPが世界のそれの50%以上を占めていた1950年代までならともかく、その時期から明らかに衰退傾向にある米国の相対的国力からして、世界覇権を維持し続ける戦略は非合理的で非現実的な選択でしかない。

 

 ベトナム戦争イラク戦争あるいは誤った中東政策を主張してきたのは、ジョセフ・ナイJr.やらジョン・アイケンベリーなどといったリベラリストの方である。彼らのプランがいかに杜撰であったかは、イラク占領においても日本でのGHQ方式による統治モデルが妥当すると考えていたことにも現れている(日本も随分舐められたものである)。悲しいかな、日本国民が感情的にその選択は採りたくないと思ったところで、安全保障環境の厳しさが増している情勢がそれを許してくれない。事態がさらに深刻化するならば、好むと好まざるとに関わらず、日本国民はその選択の是非についての判断を迫られる時期がやってくる。

 

 安全保障論は、常に相手あっての議論である。こちらがいくらきれいごとで言葉を着飾ろうとその言葉を真に受けてくれる相手であるわけではない。外交は単なるおしゃべりの結果ではなく、軍事の裏づけがあって初めてまともに機能する。何らの力の裏づけなく、ただ単に美辞麗句を並べて外交交渉で解決すると言ったところで誰も本気で相手にしてくれない。会議で膨大に積み上げられた契約書類の山を持ち出したところで、最終的にはレボルバーというthe last resortを持った者の意向を無視できない。

 

 ある安全保障状況の中に置かれて、自らの経済的規模に見合う防衛力を欠如させることになれば、その状況における「力の空白」をもたらし、その状況を不安定にさせてしまう。いかに「力の均衡」を図ることで状況を安定させ平和を維持するか。そのバランス感覚を失い、ひたすら「平和」を合唱しているだけでは紛争を誘発することにしかつながらないだろう。逆に、周囲の状況からして無碍な軍拡を一方的に進めることも周辺諸国の警戒感を増幅させ、徒な軍拡競争を誘発させてしまうセキュリティ・ディレンマに陥らせてしまう。

 

 北朝鮮は核による恫喝外交を止めるどころか、ますますエスカレートしていくだろうし、中共は「九段線」という身勝手な理屈を根拠に南シナ海全域を支配していったように、やがて尖閣諸島や沖縄まで東シナ海全域をも我が領海だとしてその排他的支配のための軍事的圧力を加えてくるだろう(1992年に制定した「領海法」の主張を周辺諸国に力づくで押しつけてきている)。さらには外洋にある沖ノ鳥島周辺の我が国のEEZの海洋権益まで主張してくるのも時間の問題だ。中共の目的は、西太平洋を自らの支配下に収めることだと公然と主張していることからして、当然の行動である。習近平オバマとの会談で、米中両国により太平洋二分論を提案した時、オバマはまともに取り合わなかったが、習近平の決意は本気のようだ。それは、外交を取り仕切る楊潔篪中共中央政治局委員の発言にも現れている。尖閣諸島で何らかの軍事的衝突となるのは不可避かもしれない。それが米中全面戦争にまで拡大することは両国が核保有国なので回避されるだろうけど、米国の安全保障専門家の中では、米中の限定戦争が勃発する可能性は大きくなっているとの意見がかなりの数出始めている。

 

 オバマ政権は「中東和平」と言いながら、やっていることはシリアやエジプトそしてリビアの政局を不安定にし、中東を安定化させるどころか逆に混乱する政策を一貫してとり続けた。エジプトの例など特に酷く、独裁者ムバラクを米国の意に沿わぬ者として追放した後、選挙によって米国にとって不都合なムスリムブラザーフッドの者が大統領に就任するや、気に食わないとしてCIAの工作によって国軍にクーデタを起こさせ追放しもした。

 

 オバマの下した暗殺命令の数は3000件を超え、この数はオバマより前の歴代大統領が下した暗殺命令の合計よりも多く、前任者のブッシュのそれの十倍以上もの数で、暗殺候補者リストを見ながら暗殺指令を下す火曜日の午後は、ホワイトハウスではTerror Tuesdayと呼ばれていたほどの「殺人狂」だったことで知られる。暗殺の手段はたいていドローンを利用した暗殺方法が採られていたが、オバマ政権の頃は、さらにSignature Killingまで行われていた。これは暗殺リストに載っていない者であっても、米国本土にある基地に映し出される映像から少しでも怪しい行為だと判断すれば、根拠さだかならぬとしても殺して構わないというものである。だから、オバマの下した暗殺命令によって殺害された人数は3000人どころか、さらにその何倍もの数に上ると言われる。更に、前任のブッシュ政権時、キューバにおける米軍占拠地グアンタナモの収容施設におけるCIAによる拷問行為が暴露されて問題になったが、オバマはこの問題を解決するとして収容者全員を処刑した。

 

 国務長官を務めたヒラリー・クリントンの常軌を逸した言動はより知られているが、有名なところでは、リビアカダフィ大佐が血まみれになって殺害された映像を目にしたヒラリー・クリントンの反応だ。We came, We saw, He died!と手を叩き目を輝かせて狂喜するというもので、この映像が出回りヒラリーは火消に回るも既に遅し。米国に敵対するイランに対しても、We will obliterate Iran!(obliterateというのは相当強い表現で、地上から跡形もなく消し去るという意味である)とまくし立て、周囲の閣僚をドン引きさせたいわく付きの女でもあった。

 

 二度の原爆投下で敗戦が決定的となった状況でも、ポツダム宣言受諾をめぐって鈴木貫太郎内閣は、東郷茂徳外務大臣や米内光政海軍大臣などの「和平派」と阿南惟幾陸軍大臣の「主戦派」の意見の一致を見ず、その輔弼機能を喪失するに至った。最終的に陛下の御聖断を仰ぐことになったが、たとえ国体護持の確約や玉体の安全が守られる確証がない状態であろうと、これ以上の戦争遂行はできない以上、ポツダム宣言を受諾し戦争を終結させるべしというものであった。8月10日深夜の御前会議でのことである。

 

 昭和天皇は、一貫して立憲君主として振舞われ、原則として直接個々の政治判断に介入されることはなかったが、例外的に直接その御意思を表されたのは終戦の御聖断と昭和11(1936)年の二・二六事件の時である(もちろん内部的には、例えば木戸内大臣その他大臣や軍幹部に対して時局に関する御下問が色々あったりと、内奏時に政局に関する感想を時折述べられることはあったが)。二・二六事件は、陸軍皇道派青年将校に率いられた将兵千数百名が昭和維新・国家革新を唱えて蹶起したクーデタ未遂事件であるが、その時は首相官邸や警視庁など政府中枢機関が襲撃され、閣僚にも死傷者を出すなど当時の岡田啓介内閣が機能不全に陥った。側近を殺害された昭和天皇の逆鱗に触れることになり、「朕自ら近衛師団を率いて、これが鎮圧にあたらん」と仰せになるなど、直接に政治的意思決定に関与なされた。いずれのケースも、天皇を輔弼する役割を担う内閣がその機能を喪失してしまった場合である。

 

 ポツダム宣言受諾をめぐって政府中枢の意見は二分され、「和平派」と「主戦派」との意見集約が不可能な状態に陥っていた。特に陸軍内部の「主戦派」の勢いが強く、クーデタがいつ起きてもおかしくなかった。事実、近衛師団の何人かの将校はクーデタを起こして戒厳令を敷き、「和平派」要人を拘束した上、宮城と「和平派」の連絡を遮断し、「主戦派」が主導する内閣の樹立を図る計画が進められていた。そういう緊迫した状況の中での御聖断であった。

 

 終戦の御詔勅を国民に周知される玉音放送ための録音が行われたが、そのレコード盤を奪取しようと、8月14日深夜から15日早朝にかけて、近衛師団の一部将兵が蹶起し宮城に侵入するクーデタ未遂事件が起こった。いわゆる宮城事件である。15日早朝には首相官邸や枢密院議長宅、木戸幸一内大臣邸なども相次いで襲撃されたが、15日正午に全国民に向けて放送される直前に鎮圧されたこの事件は、映画『日本のいちばん長い日』やテレビドラマ「歴史の涙」でもよく知られている。阿南惟幾大将は8月14日深夜から翌朝までの間に、「一死以て大罪を謝し奉る。神州不滅を確信しつつ」と記した遺書をのこして割腹自決を遂げた。なお、この血染めの遺書は、靖国神社に併設された遊就館で見ることができる。ちなみに遊就館を隈無く見物しようとすれば、丸1日要する。神風特別攻撃隊で散華された英霊の遺書も展示されており、鹿児島県にある知覧特攻平和会館と並んで、日本人なら最低一度は見学しておくべき施設だろう。僕が通っていた小学校が、ちょうど靖国神社近くの九段下にあるカトリックの修道会の一つマリア会の学校だったが、靖国神社に対しては丁重に遇していたし、式典の際には日本の国旗も掲揚されていた(同じキリスト教であっても、西早稲田あたりにいるプロテスタント系の反日左翼団体が靖国神社を冒涜し続ける活動をしているのと対照的だ)。これ以上戦争継続は困難であることを理解しつつも、国体の護持が確約されない限り降伏することはできないと考える陸軍の一部勢力の暴走を封じるために微妙な立ち位置に置かれていた阿南大将の心境が察せられる。

 

 仮に、この8月14日のクーデタ未遂が成功し、「主戦派」の通りに本土決戦になっていたらと考えるとぞっとする思いがするが、同時に、もっと早期に戦争終結が可能であったと言えるのかというと、頭の体操としては可能だったと言えるかもしれないが、現実的には難しかっただろう。なにせ、沖縄が陥落し、二度も原爆を投下されてもなお徹底抗戦を主張する勢力が多く、事実としてクーデタ未遂まで起きていたほどなのであるから、終戦工作が早期に図られるべきだったというのは、そうした現実を見ない机上の空論でしかない。米英に宣戦布告した昭和16年12月8日から数か月間は我が国の優勢であったが、ミッドウエー海戦以後の形勢逆転時に講和に持ち込むべきだったという案もあり、なるほど、そうした案が一度は検討されたことはあったが、米国は開戦前から日本占領を企図していたことがルーズベルトチャーチルとの間の密談内容から明らかになっている以上、開戦したからには日米双方が承服可能な講和条件が提示されるだろう期待は持てなかった。そもそも講和に応じるほどならば、急遽内容を日本側が承服できないだろうとわかっていた条件を敢えて付加したハル・ノートを突き付けることはなかった。

 

 この点、左翼は昭和20年2月に近衛文麿昭和天皇に上奏した所謂「近衛上奏文」を持ち出し、終戦時期が延期されたのは昭和天皇の判断であり、この判断の誤りによってその後の沖縄戦や都市大空襲や原爆投下の惨劇が起こったと、「反天皇制プロパガンダのための捏造すらやってのける。一度戦果をあげてからでないと終戦は難しいという判断は、前後の文脈から戦争遂行を指示されたことを意味するわけでも何でもないことくらい容易に理解できるにも関わらず、そう受け取らずに、近衛の終戦提案を退けて戦争継続を命令したと受け取っている。まず日本の統治システムがどうなっていたのかの理解に欠けている以前に(天皇について、専制君主であったかのように完全に誤解しているか、わざと自身の政治信条に都合よく捏造している)、文脈を捉えてその意味を解釈しようとせず、言葉尻を捉えて曲解に曲解を重ねる悪質性が目に余るわけだが、昭和20年2月の段階で軍部が素直に終戦の判断を受け入れることはないので終戦に持っていくのは難しいという判断は、当時の情勢からして極めて的確な判断であり、この昭和天皇の御判断は戦争継続の御命令ではなく、情勢の客観的判断であった。こういう時にふと思い出されるのは、終戦を迎えて態度を豹変させて天皇を愚弄した上官を殺害した後、自らをも処決した蓮田善明のことである(文学的には、日本浪漫派の中で一番好きなのは伊東静雄だけど。ちなみに、僕が好きな杉本秀太郎大江健三郎も、この伊東静雄のファンである。前者には『伊東静雄』があるし、後者には『僕が本当に若かった頃』がある)。

 

 日米対立が決定的となった契機は、南部仏印進駐であると言われる。確かに間違いというわけでもないだろう。実際、南部仏印進駐が現実になるや、米国は資産凍結命令と対日石油禁輸を発動したわけだから。ただ、この時点では、対日強硬論で一枚岩になっていたわけではなかったという事実も見ておかねばならない。海軍作戦部長だったターナーは、対日石油禁輸は日本の蘭印やマレーの進出を招来し、その結果として米国が早い時期に太平洋上の戦争に介入せざるを得ない状況に至るとルーズベルトに進言し、ルーズベルトも当初は、ウェルズ国務副長官に対して、石油の全面禁輸を避けるようにとの指示を出していたのである。更に、輸出管理局も、国務・財務・司法省合同外交資金管理委員会に対して、日本に45万ガロンのガソリンを含む輸出許可を出していた。

 

 ところがこの決定は、アチソン国務次官補の決定によって覆されてしまった。ルーズベルトは、8月3日からニューファンドランド沖の船内でおこなれるチャーチルとの秘密会談のためにホワイトハウスを不在にしていたわけだが、そのルーズベルトチャーチルとの秘密会談の場で対日開戦を決意するとともに、開戦の口実作りのために日本から先に攻撃をするよういかに挑発するか、また日本に勝利した後で日本を永久に武装解除させ、米国のアジア拠点として属国化する計画を練り始める。つまり、真珠湾攻撃の4か月も前に、ルーズベルトは日本が戦争に踏み切るよう仕向け、対日戦勝利後の日本の武装解除を決断していたのである。

 

 対日石油禁輸にあたり近衛文麿内閣は、事態打開のために近衛・ルーズベルト会談を提案し、あくまで外交交渉を優先して対米政策を講じたのだが、東条英機陸軍大臣が拒否して近衛内閣が崩壊してしまう(山縣有朋が導入して一旦廃止されたものの廣田弘毅内閣が再び復活させてしまった軍部大臣現役武官制の欠陥の現れの一つ)。この時点では日本としても、少なくとも近衛からすれば、①シナからの撤退、②南部仏印からの撤退、③三国同盟からの離脱ないしは事実上の骨抜きという米国側の要求にも応じる心づもりはあった。米国の国務省も、暫定協議案を日本に提示する予定もあったという。ところが、突如として国務長官ハルが日本が絶対に飲めない④満洲権益の放棄という条件を追加した「ハル・ノート」を突き付けるわけだが、これはその内容から事実上の外交交渉打ち切りの宣告を意味した。内容が日本政府に打電された11月26日、連合艦隊の約50隻の艦艇がハワイ攻撃に向けて択捉島から出港したのであった。だから問題としては、ハル・ノートに至る手前で阻止できたかどうかということになるだろう。

 

 ハル・ノートについては近年、中華民国の対米ロビー活動が果たした役割も注目されているようだが、それが決定的な重要性を持っていたかは歴史学の研究者でもない僕にはわからない。ただ、いずれにせよ、突如として④の項目が追加されたのはなぜなのかを理解するにあたって、注目しなければならないのは、やはりニューファンドランド島沖に停泊していた船内でのルーズベルトチャーチルの秘密会合の果たした役割ではないかと思われる。だとするなら、対米開戦は米国により仕掛けられた罠にまんまと嵌められた結果だと言えなくもない。とはいえ、日本政府は間違っていなかったというわけでもない。罠であれ、罠であることを見抜けずみすみす術中に嵌まった日本政府の判断には瑕疵があったからである。個人間の関係では罠に嵌められた方が被害者で嵌めた側は加害者だとするのに理があるけれど、国際政治の舞台における国家間の利害関係が絡む「ゲーム」では、そういう理屈を押し通すことはできない。